田道翁

原文:神奈川県大和市


神社の創立については、口碑、伝説等により、さらに総国古風土記等により、大昔この土地に「田道小弥麿」という者がいて深見神社を祀ったと言われ、其の死後、当社の北側に埋葬され、この地に小社を建立したと云い伝えられている。この小社の地は明かではない。当社の北側に隣接する仏導寺の縁起によれば、当山は天文年中(一五三二-五五年)草庵であったものを、捨世派の念仏を唱えた称然上人が、諸国巡化の途中、この地に足を止められ、天文十三年三月、今をさかのぼること四百五十年前、親縁山一心院仏導寺として開山した浄土宗総本山知恩院の末寺である。

この草庵が田道翁を祀った小社ではなかったかと思われる。相模国古風土記に田道小社がある。今その所在は明瞭ではないが、深見神社の北側あたりと考えられる。相模国古風土記に次の通り。

天智朝 有田道翁処民 常食木草 海苔。 不食穀類 頒家田 興里閭之貧家 一生不持婦子及九十有全 死日異香満郷 其姿如青瑠璃 里俗後建小社崇之 所貧詣之其応如奇至今如此也。(天智天皇の御代、田道小弥麿という老人がいた、いつも野菜や、木の実やのりを食べてこく類は食べなかった、田や畑を分けて村の貧しい家に与えた、一生妻や子を持たなかった九十歳余りになって死亡した生前の徳望村中に満ちた、仏になった姿は青るりのようであった村の人は後に小さな社を建ててお参りした、村の人はこの社にひきもきらずお参りをしたことは大変珍らしいことで今も続いている)

深見神社の隣地に、鹿嶋堰の土取場があった。現在、墓地に造成されたところである。里道からは四メートル位の高台である。前面は水田で、境川、瀬谷、深見の村々を一望に見渡せる高台であり、この高台に物見台のように高くなった円墳とおぼしき塚があった。大正八、九年のころの四月、鹿島堰の堰普請の時、この土取場から骨、つぼ、かめ等が発掘され、村中大騒ぎとなった。骨は、土器破片と共に堰下に流され、原形をとどめた出土品については、大和小学校に保管を依頼したといわれている。その後同校に問い合わせて見たが、学校の建て替え等により現在は無いとのことである。

『大和地名考』富沢美晴
(神奈川新聞社出版局)より

追記