浮島の弁天様

神奈川県厚木市


相模川の流れの中にあった浮島は、大水の際水害の原因となっていたので、明治初年に木が伐られ、土地は河水に侵食された。元荻野山中藩士族松下祐信の指導により作業は行われ、祐信の手記にその様子もある。また、工事の朝、空は晴れ渡っていたが、工事が進むとともに大嵐となったそうな。

里人は浮島にあった弁天の祟りを恐れたが、島の崩壊の際、弁天は崩れ流れて、対岸磯部の岸に着いた。もとより、磯部の仏像院の持の弁天だったので、そちらでこぞって祠は迎えられた。しかし、こちら側上依知では、その後の不思議があったという。

工事頭が雨中島田姿の女があちらこちらと彷徨うのを見、近付くとその影は松の根方に消えたという。それで驚き皆に話すと、船頭の一人が、金色の簪の女が、上半身を振り、下半身をのたうちつかせながら浮島の方から泳ぎ、上依知に上がったのを見たという。それで、上依知側にも弁天祠を祀ることと決まった。

『厚木の伝説・厚木地名考』
鈴村茂(県央史談会厚木支部)より要約

追記

上依知の、今は浮島神社と号している社の由来。相模川対岸の相模原市磯部に流れ着き祀られたという方は、磯部八幡宮北の茂みにポツンとある厳島神社かと思われる。仏像院とは磯部八幡宮の神宮寺であった。

蛇だと直裁にはいっていないが「下半身をのたうちつかせながら」泳いでくるというのは人でないものを表現しているだろう。上依知ではその後、この弁天さんの蛇が養蚕守護と信仰されもしたようだ(「へびになった弁天様」)。