日本武尊と立石

神奈川県平塚市


大昔、日本武尊という人が大勢の兵士を連れ、駿河から相模へやってきた。大山から下を見渡したところ、南のほうの山で光るものがある。不思議に思い、その地・吉沢を訪ねると、人々が吉沢の山の立石という大石を巻いて根城にするおろちに害され困っているのだった。

尊が見た光は、この大蛇の目が光ったところだったのだ。尊は村人の願いを受け、おろちを討つべく山へ入った。すると、白髭の老人が現れ、自分は山の日の宮という神だが、おろちに封じられ里人は害され困っている、と訴えた。土地の神まで困らせるおろちに尊は怒り、立石に向かった。

すると、戻った日の宮を締め付け苦しめているおろちがいた。そこで尊はおろちの先祖・八岐おろちから素戔鳴命が得た剣・天叢雲剣を抜き、斬りかかった。天叢雲剣はおろちたちが見ると目がつぶれるという剣だったので、おろちは驚きあわて、立石の下の穴に潜り込み、二度と出てこなかったという。

でも、おろちは立石を七回り半まわる者がいたら、穴から出てやると思っているので、立石は回ってはいけないといわれている。

『むかしばなし 続・平塚ものがたり』
今泉義廣(稲元屋)より要約

追記

平塚市上吉沢・下吉沢の南西奥に日之宮山とあり、日之宮の石祠があり、近くに立石もある。大日孁貴神を祀るとされるが、イメージは白髭の老爺であったようだ。

ここから秦野のほうにかけて、日本武尊伝説がよくあるが、秦野のほうは御嶽神社が尊を祀るとなって以降、近世以降語られたものと思われ、吉沢も上下双方祀る八剱神社が尊を祀るとなってこういった伝説が語られるようになったのだろうと思われる。

ただ、立石(尊の腰掛石との話もある)は下部がT字に割れ、いかにも要石的な雰囲気を持つ石であり、その下に大蛇が逃げ込み出てくる機会をうかがっているというのは見逃せない(近く「ゆるぎの丘」というのは餘綾のことだろうが)。

なお、日本武尊が蛇を石下に封じるという似たところのある話が、房総半島東京湾側に見える(「貝渕の日枝神社伝説」)。尊の伝説はどこも多分に「平定」の色合いを帯びるが、それらもそうだ。

さらに、八剱神社絡みと見るなら、信州のほうに目を向けたいが、釜無川から立場川を遡るあたりに、尊の大蛇討伐で地名の由来を語る地域がある(「釜無川ぞいの地名縁起」)。そちらも併せ見ておかれたい。