観音崎の船守観音

神奈川県横須賀市


観音崎の海辺に大きな海蝕洞窟がある。昔、洞窟には一匹の恐ろしい大蛇が住んでおり、一帯にはたくさんの鵜も住んでいた。沖を船が行くと、鵜が群れで襲い、連絡し合っているようにその後大蛇が船に危害を加える。毎日のように襲われる船があり、帰らぬ人が増え、里は悲しみに沈んでいた。

そんな天平十三年の春、諸国を巡っていた行基菩薩が観音崎を訪れた。行基は里人の嘆きを聞くと、その法力をもって鵜と大蛇を退治した。そして、これらの霊を慰めるために観音像を彫り、洞窟のそばに祭った。それで海は平穏になり、里人は感謝してお堂を建て、海上守護の船守観音と厚く信仰した。

時下って建保元年、建保の乱の騒ぎで、堂守がどこかに船守観音を隠し、自分も姿を消すということがあった。信者や里人が総出で探しても、その時は見つからなかった像だが、三十年程経った寛元二年に磯の間に不思議な光が見え、そこに観音像が見つかったという。この磯で観音様の手が傷ついたので、そこを手摺が淵といった。

『古老が語るふるさとの歴史 南部編』
(横須賀市)より要約

追記

日本武尊が房総に向け海上に出た走水の湊からすぐ南東の岬端を観音崎といい、今も上の伝説の岩窟がある(三浦半島で最も東に出っ張った部分だ)。観音堂は岬の砲台化の際鴨居に移され、昭和61年に観音像(十一面観音像)もろともに焼失してしまった。

神話の走水近くということもあり、三浦半島の大蛇伝説の中では一番有名なものだろうか。しかし、半島の反対西側では行基が七頭一身の悪蛇を十一面観音をもって改心させており(「沼間の七諏訪神社」)、三浦半島好みの筋書きなのではある。

土地の人々の間では、より身近な話として語られもするので(「後家が崎」)、そのような雰囲気も見ておきたい。なお、上では慰霊に彫られた観音像だが、やはり観音像の威光で退治したといいもする。

さて、もうひとつ注目しておきたい部分は、大蛇と組むようにして鵜の大群が登場しているところだ。これは周辺大蛇伝説には見なく、走水であることと関係するのか、という点なのだが、行基の観音像を祀った場所を大蛇を祀った「鵜羽山権現」といったともいい(菊池『三浦半島の民話と伝説』)、確かに重要なのではある。

これに関し、実はこの地には日本武尊を乗せた船の船頭の子孫の家というのがあり、その船頭をウノウトクサドンといったという(『新横須賀市史 別編 民俗』)。もう火事で焼失してしまったが、その時の船の櫓が屋根裏にあったという家である。

下ってその家は「宇野」となり、代々「徳三郎」を襲名したようだが、昭和の中ごろまで、走水神社の祭礼の総元締めであったという。これが鵜と関係ないだろうか。三浦半島周辺の大蛇伝説には、それが海賊のような人の動きのことじゃないのかと思わせる部分がある。鵜の群れが土地の海民ウノウのことをいっている、という可能性は十分あると思う。