魔性と契った祢宜の娘の話

神奈川県相模原市緑区


相模川を挟んで、大島と小倉は茶摘みや薪取りの行き来があり、若い男女の出会いもあった。大島の石盾尾神社の祢宜におそよという器量好しの娘がおり、おそよも茶摘みの行き来に小倉村の名主の息子という美男子と出会った。やがて逢瀬を重ねたおそよは身籠り、それと見抜いた母親に相談した。

ところが父母が小倉を訪ねても、そのような名主の息子は見当たらないのだった。母は心配なり、子取り婆さんに相談して、男に針糸をつけてその正体を探ることにした。おそよに針をさされた男は恐ろしい目つきで睨むと、轟音をたてて坂を滑り降り消えたが、母娘が糸を追うと、下大島の白森稲荷の椎の空洞の中に続いていた。

空洞の中からは、人の恐ろしさを侮った愚をたしなめる声がし、苦しそうな返事が、しかし忘れ形見を娘の胎内に置いて来た、と応えていた。それでもたしなめる声は、そんな子は蛙に喰われてしまうと返し、それを聞いた苦しげな声の主は嘆息とともに絶命したようだった。

この話を聞いた子取り婆さんは、蛙を沢山捕ってこさせ、盥に放つとおそよに跨がせた。そして早産させた子は蛙に喰わせてしまった。父の祢宜が白森稲荷の空洞を調べると、大蛇が死んでいたという。大蛇は小倉の大程原の猪追いの子となっていたが、死んで正体を表したのだ。

穴には白狐の毛もあった。大蛇に苦言を呈していたのは、下大島の白森稲荷の天白狐稲荷大明神であったそうな。おそよは快復後世を儚んで、南松山定禅寺の尼となった。男と子の冥福を祈って世を終ったという。

『増補改訂版 相模原民話伝説集』
座間美都治(私家版)より要約

追記

大島の諏訪神社(一時式内の石盾尾神社と名乗った)の話。大筋は針糸・立ち聞き型の蛇聟譚の典型話だが、細かなところに独特な構成がある。まず、その舞台と時季が相模川を挟んだ両村交流の場であったところが面白いだろう。小倉から大島に茶摘みに来たそうだが、それは四月二十六日で、二十六夜の月待ちがその出会いの場となっていたという。

そして、主役が祢宜の娘というところが特異だ。当地でもお諏訪さまといえば蛇なのだが、蛇の神社の娘に蛇が通った、という話になっている。さらに、この神社には雨乞いさま・志満龍権現という「明和八年蛇を祀り祈雨の神と」した神も合祀されている(『新編相模国風土記稿』)。

二重に蛇に縁のある神社である。もしかしたらこのようになる前の話が何かあったのかもしれない。要約では省いたが、二人の逢瀬で蛇聟が通い詰めた道が雨乞い坂であったとある。雨乞いの際はこの坂を下って雨乞いさまを相模川に運び、水をかけたのだという(『相模原市史 民俗編』)。

また、立ち聞き型の蛇聟譚で針を刺された蛇聟に苦言を呈すのは、大概その親蛇などとなるのだが、ここではそれを稲荷狐が行なっている。しかも、天白狐とあるので、お天白さんであったようだ。稲荷と蛇が関係することはままあるが(「蛇渡り稲荷」など)、このような構成は中々類を見ないものといえる。

さらに、この蛇聟は小倉山の猪追いの子として暮らしていたということで、蛇息子であったことが暗示されている。蛇聟の正体として、通ってくる前に人の子として暮らしていた、という背景が語られるというのもちょっと見ないものだ。

小倉の方ではまた別に蛇息子の雰囲気の話が見える。こちらの蛇聟は小倉の名主の息子を詐称したが、そちらの蛇も小倉の名主の蔵に住んでいた蛇だ。もしかしたらよりはっきりとした蛇息子の話が底にあったのかもしれない(「市兵衛同心の話」)。

ともあれ、典型話のようでいて、その背景には少し違ったいろいろの話があったのではないかと思わせる大島の蛇聟の伝説ではある。相州にも色々の蛇聟の話はあるが、中でも特に注意の必要な一話であるといえる。