魔性と契った祢宜の娘の話

原文:神奈川県相模原市緑区


毎年四月二六日は「茶摘み正月」といって、川向うの津久井小倉村の老若男女は、打揃って陽野原(みなのはら、田中・大島の原をいう)に来て茶の芽を摘み、その夜は二十六夜の月待ちのこととて、夜遅くまで睦みあうのが例であった。その代償として大島がわからは、石野山(小倉山のこと)へ薪をとりに行くことにしてあった。こうした折に結ばれる若い男女のロマンスが、時に噂の種にのぼることがあったとしても、またやむを得ないことだったろう。

ここに大島村の石盾尾神社の祢宜の娘に、おそよという大変なきりょう良しで悧発な娘があった。何しろこの草深い田舎に住みながら、江戸の一枚画に描かれたというのであるから大したものである。この娘がやはり茶摘み正月に、小倉村の名主なにがしの息子に見染められた。男の方も業平かと見まごうばかりの美男子故、正に好一対の取組みだったから、娘の方も熱くならざるを得なかった。日ごとに深まる恋仲となり、夜ごとに逢う場所は、大島の大坂の坂口としめし合わせ、男の方は、小倉から雨乞い道の地べたがへっこむほど相模川を渡って通いつめた。

やがておそよは身重の身体となった。さすがに母親は女だけに眼が早く、ただならぬ身体に気づき、心配のあまり娘に事の仔細を尋ねた。おそよもこうなった以上はいたし方なく、正直に一部始終を打ち明けた。

そこで母親は父親の祢宜と相談し、好いて好かれてこうなる上は、一しょにするにこしたことはないというので、まず先方へ当ってその意志を確かめようと、川向こうの小倉へ出向いた。そして名主なにがしの息子なるものを尋ねたが、それと思われる若者は一向に見当らないのであった。

母親はますます心配になり、坂口の子取り婆さんに事情を打明けて、相談におよんだ。百戦錬磨の子取り婆さんも、眉をひそめて「ふんふん」と聞いていたが、「それなら、かようしかじかにしなされ」と教えてくれた。母親はいわれた通りに千巻(ちまき、糸巻き)に一杯に糸を巻きつけてその先きに針を通し、娘のおそよに持たせて、男の来るのを待ち構えさせた。

そのあくる晩おそよはかねて約束してある大坂の坂口に行き、母親は物かげに身をひそめて待っていると、やがて男はやって来た、黄八丈の着物に博多の帯、桟留羽織に白銀づくりの脇差といういでたちで、夜目にもしるく光り輝くほどに見えた。すぐに二人の睦言は始まり、おそよは花も羞じろう風情で、男によりすがりながら、ただならぬ身体になったことを訴えた。

男ははっとした様子で、優しくいたわるようにおそよの身体を見ていたが、何とも途方にくれた面持で、ただただ白なめしの雪駄で地面を撫でながら、黙然と思案にふけっていた。物かげで様子いかにとうかがっている母親は、男の姿が夜の闇にもまぎれずにはっきりと見え、地面を撫でる雪駄の裏金の音が少しも聞えないのを不審に思い、さてはもしやと案じてはいたが、やっぱり魔性のものではあるまいかと、かねてからの懸念を一層濃くするのであった。

おそよはやがて隙をうかがい、あらかじめ教えられた通りに、隠し持ったる例の千巻の針を、男の羽織の襟先に返し針に縫いこんだ。その途端に、男は恐しい眼つきで、おそよをはったと睨みつけ、天地も揺れんばかりの物凄い地響きを立てて、大坂を真一文字に滑り降りてしまった。今まで、空にちらついていた星かげもいつしか消えて、黒暗々のうちに生臭い陰風が陰惨に漂うのみであった。

母娘は一時あ然として立ちすくんでいたが、気をとりなおし、糸の行手をたどって進んだ。すると糸の先は下大島の白森稲荷の椎の根もとの大きな空洞の中にはいって行く。二人がその空洞の外に忍び寄ると、中から死の断末魔の恐しいうなり声が聞えて来る。そのうめきの合い間に何やら声がもれて来る。耳をすまして聞くと、
「わしが日ごろからあれほど気をつけて置いたのに、用いぬ故こんな目に逢うのだ。人間ほどこわいものは世に無いぞよ。一度こうと睨まれたら、かならず命はとられるのだ。お前も好きなことをした挙句の果ての心柄だから、自業自得とあきらめて、いさぎよく成仏しなされ」
相手の声はいとも苦し気に喘ぎながら、
「わが身に鉄を打ちこまれるまで、気がつかずに娘の愛におぼれていたのは、わしの一生の不覚であった。しかし、わしはここで命を終っても、わしのわすれがたみは娘の胎内にとどめて来た。それがせめてもの慰めだ」
「愚かなこと、そんなことが慰めになるものか。その子どもは生まれ落ちるとすぐに、田圃の蛙に喰われてしまうぞよ」
「ああ」
と尾を引くようなうめきとともにうなり声も消え、どうやら魔性は絶命したようだった。

やがて夜明けに近く、東の空がしらんで来たので、母娘は一応立ち帰り、例の子取り婆さんのもとに行って、ことの次第を話し、あとの始末につき知恵を借りた。婆さんはうなずきながら聞いていたが、予期していたように驚かず
「おそよさまには、すぐに虫を病ませ一時も早く生ませましょう。急いで田圃に行って蛙を沢山捕って来なされ」
そこで蛙を捕って来ると、それを盥の中に放って、おそよにそれをまたがせ、早産させて生まれた赤子は蛙に喰わせてしまった。

父親の祢宜が例の白森稲荷の空洞を調べに行くと、中には大蛇が死んでいた。大蛇の化身が小倉の大程原の猪追いの子となっていたが、死んでその生態を現わしたものだった。そばには白狐の毛が散らばっていた。大蛇に意見をしていたのは下大島三、五六八番地の白森稲荷の天白狐稲荷大明神で、日ごろは社の縁の下に住んで乞食の姿をしていたとのことである。

身体が快復したおそよは、一生一度の恋の相手が魔性で、悲恋に終ったのを悲しみ、世をはかなんで南松山浄禅寺(葉山東林寺末、現在島牧場のある下で、大島坂不動尊付近にあった)に入って尼となり、亡くなった男と子どもの冥福を祈って世を終った。法名を松香庵一乗尼という。

『増補改訂版 相模原民話伝説集』
座間美都治(私家版)より

追記