長泉寺のおこり

埼玉県本庄市

昔児玉の庄の東に大きな沼があり、深さ百メートル、一廻りは八千メートルとも一万三千メートルあったともいわれる。沼の主は大蛇で、人身御供の娘を供えないと稲を荒らすのだった。これが天子様の耳に入り、当代一流の勇将、坂上田村麻呂に討伐の勅が下った。

将軍は知仁勇の三軍を率いて下向し、十二天山に集めて祈ったとも、今新井にある赤城明神の丘から沼を一望し祈願したともいう。それから、大蛇の住家を見つけるため、堰を造り沼の水を引かせ、北向明神に七仏薬師を村渕に祀り、最後の水を引き抜いた。

水が引くと大蛇が出現し、その恐ろしさに皆は逃げ惑ったが、田村将軍は赤城明神霊示の南十条白玉稲荷の神体を投げつけた。その白玉は火焔となり大蛇を黒焦げにした。その後取り入れられた身馴川の水で火は消えたが、そこには馬百頭でも積めぬ骨があったという。

百駄の骨は、高柳に葬られ、埋めた畑(骨畑)にはお堂が建立された。下り永正の頃、由緒を訪ね来た大同存大周という聖者が、慰霊のために長泉寺を開山した。開基は上杉顕定という。

田島三郎『児玉の民話と伝説・中巻』
(児玉町民話研究会)より要約

藤棚で有名な長泉寺だが、この寺は引いたように、田村将軍に討伐された大蛇を慰霊する寺なのだという。骨畑とあるが、他の資料などでは「骨波田(こつはた、地元的には、こっぱだ)」と書く。藤も骨波田の藤として知られる(大蛇の化身の藤というような話は聞かない)。

もっとも、長泉寺ができたのは室町戦国時代の話でさておき、これが同地に伝わる「十条沼の大蛇」の伝説であるという点が主眼となる。話の大沼が十条河原のそばの沼とか十条沼とか呼ばれるもので、そこの大蛇を田村将軍が討伐したのだという。