長泉寺のおこり

原文

昔のむかし、武蔵の国児玉の庄の東に大きな沼がありました。何でも深さが百メートル、一廻り八千メートルとも一万三千メートルあったとも伝えられた沼です。

『沼の主は大蛇で年に一度若い娘を供えないと、稲の取り入れ頃周辺の村に出て全部荒してしまう。』という話が、天子様のお耳に入りました。早速退治の命令が当時都で一番知、仁、勇を兼ね備えていると誉の高い坂上田村麻呂に下りました。

将軍は、命令のことばにあった知仁勇になぞらえ、先見や道を調べ、食糧を整える知の軍団を先に出発させました。続いて沼のまわりの村々の住民と心を一つにして今までの出来事や、攻める方法等を調べる仁軍を送り、最後に退治の本隊の勇軍団を引きつれ出発しました。

私が聞いた話は、全軍を十二天山に集めてお祈りしたことになっていますが、地元の人は、今新井にある赤城明神の丘に登り、沼を一望に見渡し祈願したのだと教えてくれました。

お祈りの結果、まず大蛇の住家を見つけるため、沼の水を三度に分けてひかせましたが、変幻自在の魔力を持った大蛇ですからどうしても姿を見せません。やむなくお米を作る人々のためにとっておいた水ですが、四度目に川(志度川)をつくり、材木で網の目のように細かく編んだ柵の上に土を盛り、小堰大堰の堰をつくり、赤城明神の霊示に従って田村麻呂は、五つの村に北向明神を立てました。そして身馴川の水を取り入れる渕に七仏薬師を建立させ、万端の準備を整えて勇軍団に退治の手配をさせ、沼の水を一度にひきぬきました。

大沼の水も小堰を越え、大堰に流れ込んだ時「主」も流れに乗って堰に移り住もうとしたのでしょう。その時です勇軍団が堰の土を取り除き見る見る水を引かせたところ、たけり狂う大蛇の恐ろしさに見守っていた村人達は、逃げ出してしまいました。将軍は時は良しと決断し、赤城明神の霊示の南十条白玉稲荷の御神体を「南無白玉明神霊験を現し給え。」と声高らかに念じ、大蛇めがけて白玉を投げつけると、火焔となった御本体は沼の主を火炎に包み黒焦げにしてしまいました。その時、新しく取入口をつくった身馴川の水が大堰をめがけて流れこみ炎を消す事ができましたが、そこには馬百頭にも積み切れない程の骨があったそうです。

将軍は、赤城明神のお告げ通り身馴川沿いに上り、高柳の谷津に百駄の骨を運び、埋めた畑(骨畑)にお堂を建立し、手厚く供養して立ち去りました。この話の様に口碑にちなんだ地名は今も残っています。

永正の頃(四百五、六十年前)、由緒を訪ねて来た大同存大周という聖者が、慰霊のための長泉寺を開山しました。古文書によると、開基は雉ヶ岡城を居城にしようとした上杉顕定とのことです。

田島三郎『児玉の民話と伝説・中巻』
(児玉町民話研究会)より