大昔、沼田は大きな湖だった。角と四本足があり何十メートルもある「蛟(みづち)」がゆうゆうと泳いでいた。そこに都から鳥臣(とりのおみ)という人が遣わされ、人々のために水を切って田にしようと考えた。
しかし、棲み家を奪われると思った蛟が大暴れするので、日本武尊と諏訪明神に助けを求めた。さすがの蛟も神さまには敵わず、天高く飛び上がると三峰山の大沼の底深くに沈み、姿を隠してしまった。
こうして憂いのなくなった人々は、鳥臣の指導のもとに湖の水を流し、和田・庄田・硯田・恩田・川田・下沼田・町田などの七田を始めとする、美しい田を開いた。これが沼田盆地で、蛟を退治してくれた武尊神社と諏訪神社を祀るのである。
一方の蛟は何百年も三峰山の大沼に潜んでいたが、関東地方にものすごい大雨が降った際、一気に利根川に流れ出て、遠く遠く太平洋に逃げ去ったという。(武井新平『沼田の歴史』等)
実に『先代旧事本紀』に見る、沼田の湖水伝説。推古天皇の時代に書かれたかどうかはともかく(ちなみにこの伝説も推古天皇の時代のことという)、平安時代にはあったのであり、湖水伝説の記録としては古株である。以下市史にある旧事紀本文。
(前略)推古天皇十五年八月、大仁鳥臣、往東国開田、至上野、治利根海、見海状、乃割戸河滝磐、高二十丈、厚一百歩、暴蛟忿荒、洪水漲流、爰鳥臣廻妙工、敢不損亡一人、遂治水為陸、得良田一万七千八百八、人言神工不勝人巧、毒蛟尚逗深淵、知鳥臣出議田、欲食鳥臣、忽有神人、切殺毒蛟、開三国路、直入雁越、(後略)
これが沼田氏の家伝書などに再録されつつ、話の幅が広がって、先に見たような伝説として語り継がれることになった。殊に、引いた話に見る日本武尊の神助は見ない伝系もあり(「利根の海の蛟」)、これは尊を祖とする沼田氏の信仰を反映したものだろう。
しかし一方で、沼田氏にはその血筋に蛇の母が入るという話もある(「大蛇の輿入れ」)。その母が、沼田湖・利根の海のヌシたる大蛟の末裔であるとしたら、少々解釈が難しくなってくるだろう。
それどころか、実は沼田氏の娘に通う蛇聟が退治される、という話まである(「荘田沼の主」)。こうなるともうどこが本筋であるのか胡乱と言わざるを得ない。
ひとまずは文書記録にあるものとしては格段に古い、蛟の大暴れする湖水伝説の古株が関東にはある、この点は動かない。そこに以降の話がどのような関係を持っているのか、それは上州全体の話の好みなど見渡しまた振り返って考えるべきことだろう。