大蛇の輿入れ

群馬県沼田市

沼田氏の遠祖は日本武尊の子、巌鼓君だという。それから何十代目かの城主のとき、侍女の中に見慣れぬ比類なき美女が立ち交るようになった。城主はその美しさに心うたれ寵愛したが、女は黄昏の後にしか現れないのだった。

しかも、どうも城主以外の者には見えていないらしい。殿は疑い、女に尋ねると、庄田の者ではあるが、昼には自由にならぬ身なのだという。そして、この身を引き取って戴けるなら、昼も侍ることができます、といった。そこで殿はすぐにも館へと引き取ることとした。

夫婦相愛の楽しい日が永く続き、男の子も生まれた。その子はやや顔長で脇の下に蛇の鱗の形があったが、生い育っては武勇もすぐれ、智謀にも富んでいたという。

城主に愛されたこの女は、庄田の沼の大蛇の化身であったのだという。美女が輿入れのとき乗って来た輿は後に石と化し、牛石と呼ばれたそうな。

暁風中島吉太郎『伝説の上州』
(中島吉太郎氏遺稿刊行会・昭7)より要約

それが一方でこうした蛇女房の話も語られるというのが不思議な上州沼田だ。しかも、「子は稍々顔長で脇の下に蛇の鱗の形があった」というのは明らかに緒方惟栄(惟義)の祖、蛇を父とするというあかがり大太・大神惟基を意識した表現だ。これが緒方との縁があることを意識して中島吉太郎が挿入したものなのか、より昔にその縁を意識してこう語られていたものなのか。

しかし、なぜ父と母が変わるのか。そもそも、緒方祖の父蛇がいた聖山も、なぜ「祖母(優婆)岳」なのか、というのもある。沼田の奥には安倍一族が落ち延びてきた、の伝がある。両者の伝説にはどこまでつながりがあるのだろうか。

とすると、これら蛇母蛇聟の祖はその大蛟という感覚があってしかるべきと思われ、湖を干拓した人々の末という沼田氏とどういう関係が想定され語られていたのか、少々解釈が難儀という問題もある。