新海様の裏に池の形のくぼみがあり、由池という。元禄の正月十五日、青龍という僧が、新海様の本殿から蛇体が東北に行った夢を見、翌朝蛇ののしていった跡をついて行くと、池があって水が出ていた。この水を硯に入れて梵字を書くと、不思議にも三十六枚の紙の下まで映ったという。
それでおふれを出し、御符神(おふだ)を配り、これから毎年正月十六日の御神符祭が行われるようになった。十五日の丑三頃に神職が白い布で覆面をして水を汲みに行くが、途中で会った者は死ぬといい、田野口ではその夜は早くに寝てしまう。
佐久大県の総社といわれるのが新海神社。もと新開(にいさく)の神であったといい、すなわちこの神が土地を拓いた「さくの神」ということになる。主祭神は諏訪明神の御子神・興波岐命。僧が出ているが、廃仏以前は神宮寺があったのであり、今も三重塔がある。
新海神社では西本社(事代主命・誉田別命)と中本社(健御名方命)のセットと、東本社(興波岐命)という三つの社が「本殿」扱いとなるが、どの本殿から蛇が出たのだろう。わざわざ言う必要がないというなら東本社なのだろうが、龍を彫りこんだ「御霊代石」は西本社と中本社の間にある。
由池というのは、神地の東北奥に広がる古墳群にある塚穴のことのようで、自然地形と古墳との違いはあるが、同佐久は広川原のほうの「本社の池」などと同じ神域感覚があったのじゃないかと思う。いずれにせよ、蛇が出るわけだ、という社だ。
強く注意しておきたいのは、その蛇神らしくある興波岐命は、諏訪明神と上州貫前の女神との間に生まれた御子神だとされるところだ。『神道集』「上野国一宮事」では諏訪大明神が日光の母を訪れる際に、天竺・狗留吠国から上野笹岡山に来ていた好美女(が貫前の女神)と知り合い、夫婦となっている。
この話は、今は健御名方命の事績と語られるが、「上野国一宮事」や「諏訪縁起事」の枠組みの話であり、諏訪明神とはつまり甲賀三郎のことである。「新海さん」が蛇だというなら、それは三郎の子だから、と見たほうがよい。
ところで、新海さんには面白い特徴が語られる。博打が好きで、しかも弱かったというのだ(「幸神と新海様」)。どこからこういった面が出てくるのか不明だが、御神幸が阻害されるらしいところが目を引く。