沼が原古伝

栃木県那須塩原市

昔、片岡村の安沢に箭中太郎兵衛という長者がいた。もう父母もなく、妻も迎えずひとり淋しく暮らしていたが、そこへ訪れたひとりの女があった。女は世に頼るもののない身で、ここで養ってもらえないかと懇請した。よく見ると女はこの世の人とも思われぬ美しさで、長者は願いを容れてやった。

女は労をいとわぬ働き者で、長者の家にも春が訪れたようになった。そしてひと月がたち、長者と女は夫婦となった。妻は身重となり、愛児を待ちながら暮らしていたが、いよいよ臨月となり、妻は産屋を建ててもらい、そこへ移った。そして、決して子が生まれるまで部屋を見ないように、と言い別れた。

しかし、日数がだいぶ過ぎても様子が分からず、待ちあぐんだ長者は、そっと産屋を覗いてしまった。すると、そこには妻の姿はなく、一匹の大蛇が赤子を抱いて舐めまわしているのだった。一度逃げた長者が、赤子が気になり産屋に戻ると、もうそこには大蛇の姿はなかった。

長者は一人で赤子を育て始めたが、乳を求め母を慕う子は泣き続けた。そんな時、三斗小屋の大沼に大蛇が現れるという噂を聞き、長者は赤子を連れて大沼を訪ねた。傍らの石に腰かけ呼んでいると、果たして大蛇が妻の姿で現れ、ひとつの珠を与えると、もうここには来ないよう告げ消えた。

珠を頬や唇にあてると子は泣きやむのだったが、この話が意地の悪い代官に伝わり、珠は代官に奪われてしまった。そしてまた子が泣くので、長者が再び大沼を訪れると、現れた妻は長者の意気地のなさに怒り、珠は自分の眼であり、もう一眼を与えるわけにはいかない、と求めに応じず去ってしまった。

長者は泣く泣く家に帰ったが、赤子は飢えて死んでしまった。家運も傾いていき、長者は魂の抜けた人のようになってしまったという。その大沼も、その後、応永二年に起こった那須さんの噴火で埋もれ、長者の腰かけた石も半ば砂に埋もれ、子守石と呼ばれている。

小林友雄『下野伝説集 追分の宿』
(栃の葉書房)より要約

大沼は那須岳の西南西すぐ下にあり、今は湿地帯となって、沼が原・沼っ原と呼ばれている。そこからは大分離れるのだが、矢板市となった片岡にこういった長者と蛇女房の伝説がある。これはかなり広く語られ、長者が呉服屋であったり、行商の男だったりもする(安沢の長者の話はまた別にあったようでもある)。

話の筋は概ね皆同じなのだが、最後に蛇女房が二つ目の珠(目玉)をくれるものと、二つ目の珠はくれずに去ってしまうものがある。片岡安沢のある矢板地域では前者、黒磯のほうでは後者が語られた(『矢板の伝説』)とあり、引いた話は黒磯のものとした。

周辺またいろいろの場所が伝説につなげられ、これはまず話にもある沼が原の子守石の伝説でもある。板室にある石尊大権現にあった樅の大樹にこの大蛇がよく登っていたとか、街道から山中に入ったところの乙姫(乙女)の滝では、この(盲目の)女が髪を洗うのが見られた、などともいう。

鏡沼は鏡沼で、会津下郷のほうへかけて蛇女房・大蛇の話がたくさんあるので、今それをみな見渡すことはできないが、大沼のほうの話との類似は強い。いずれ同系の伝説群として整理するようになるかもしれない。