『日本霊異記』

索部:古記抜抄:2013.03.13

雷を捉えし縁
狐を妻として子を生ましめし縁
電の憙を得て、生ましめし子の強力在りし縁
孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて……
蟹と蝦(かえる)との命を贖ひて放生し、現報に蟹に助けられし縁
粘土の神王のこむらの光を放ち、奇し表を示して現報を得し縁
慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁
女人の石を産生みて、之を以て神とし斎きし縁

上巻 雷を捉えし縁 第一

雄略天皇の随身であり、腹心の従者であった少子部栖軽が、天皇が后と大極殿で同衾なさっていたところに気づかず入ってしまい、天皇ははずかしく思い事をやめてしまった。折しも雷が鳴ったので、天皇は詔して栖軽に雷を呼んで来られるか、と仰せになった。
栖軽は勅命を奉じ、赤い鬘を額につけ、赤い小旗をつけた桙を持って馬に乗り、阿部村の山田の前の道から豊浦寺の前の道を走らせていった。軽の諸越の町なかに行きついて、雷に天皇がお呼びであることを告げ、雷神といえども天皇の招きを拒否することができようか、といった。栖軽が戻る途中に、雷が落ちており、神官を呼ぶと輿に雷をのせ宮殿に運んだ。天皇はこれを見て恐れ、たくさんの供え物を捧げ、雷を落ちたところに返した。この場所を雷の岡と呼んでいる。
その後、栖軽が死んだので、雷の落ちたところに墓を作り、栄誉を称え「雷を捕えた栖軽の墓」と碑文を立てた。雷はこの碑文を憎み恨んで雷鳴を轟かせて落ち下り、この碑を足蹴に踏みつけたが、柱の裂け目にはさまれ、再び捕えられてしまった。天皇は雷を解いて放免されたので、雷は死を免れた。しかし、雷は七日七夜も放心状態で地上にとどまっていた。天皇の勅使は再び碑柱を立て、これに「生きている時も死んでからも雷を捕えた栖軽の墓」と書いた。

『日本霊異記』より要約

「雷の丘」は現存する。

「雷丘」(Wikipedia)

これは「雷の丘」地名の由来を語る話だと最後に書かれているが、次の話が狐女房、その次が道場法師と続くので、強力を持つ人の話がまとめられてもいるのだと思って良いだろう。

『霊異記』の栖軽の話は、雷を捕まえているのであるが、三輪山の蛇神を捕まえているわけではない。というより「蛇」とはひと言も出て来ない。「蛇神」を捕えるというのは『日本書紀』の栖軽の話だが、並べて見ると結構ニュアンスの異なる話なのである。

▶「少子部栖軽のこと」(『日本書紀』)

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上巻 狐を妻として子を生ましめし縁 第二

昔、欽明天皇の御代に、美濃国大野郡の人が野原で美しい女と出会い結婚した。男の子も生まれたが、家の犬がいつもこの主婦に吠え立てるのだった。主婦は犬を殺してくれるよう頼んだが、主人は犬が可哀想でできなかった。ある時、ついに犬が主婦に噛み付こうとし、ほえついた。主婦は狐の姿に身を変じ逃げると、籠の上にのぼって座っていた。夫はこれを見ても、お前を忘れないぞ、いつでも来なさい、と声をかけたので、その後も狐はやって来て泊まって行くのだった。このことからこの女を「来つ寝」─「狐」と名づけることになった。また、二人の間にできた子どもに岐都禰と名づけ、その姓を「狐の直」とした。この子はまことに強力で、鳥が飛ぶように速く走った。これが美濃国の狐の直の姓の起りである。

『日本霊異記』より要約

この狐女房の子孫がまた怪力で美濃小川の市で乱暴をする。これを尾張の道場法師の子孫の強力の女が懲らしめる話が、同『霊異記』中巻四「力ある女の、力捔べを試みし縁」とあり、同じ話が『今昔』などでも語られる。狐女房譚としては下っての話が正体が分かっての別離となるのに対し、狐と分かって後も通ってきて、一族の由来として語られている所が違う。祖神の面影をより濃く伝えていると言えるだろう。

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上巻 電の憙を得て、生ましめし子の強力在りし縁 第三

昔、敏達天皇の御代に、尾張国愛智郡、片輪の里の農夫の前に雷が落ちて、小さな子どもの姿になった。農夫が鉄の杖で突こうとすると、殺さないでくれたら、子を授けて報いましょうと言う。農夫は雷のいう通りに水槽を造ってやり、雷を天に帰した。その後、生まれた子どもの頭には、蛇が二巻き巻きついていて、頭としっぽが後頭部に垂れ下がっていた。十歳あまりになった頃、朝廷に力の強い王がいると聞いて、力比べに行った。力持ちの王は小子にまったく敵わなかった。小子はその後、元興寺の童子となった。(以下略)

『日本霊異記』より要約

以下、童子(優婆塞)が、鬼を引きずり回して捕まえたり、水を独占する王の水口に百人力で引く事のできるような大石を投げ入れ塞いで、寺の田に水を引いたりと怪力の僧として活躍するさまが続くが、略。すなわちこれが元興寺の道場法師の話である。憙は「むがしび」、好意のこと。
雷神・蛇神と人の間に生まれた御子神が昇天する話は『山城國風土記』逸文の賀茂神社縁起や『常陸國風土記』の哺時臥山の話などあるが、道場法師もその系譜に連なる人物であったと見て良いだろう。道場法師の子孫の「尾張の女」もまた強力として色々に語られる。

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上巻 孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁 第二十八(役行者の話)

葛上郡茅原村の役の優婆塞は仙人となることを願い、四十歳余にして窟に住まい修行をしており、孔雀経の呪法をおさめ、仙術を身につけ鬼神を使役していた。ある時、鬼神をさそい、金峰山と葛城山の間に橋を架けようとしたので、神々が嘆き、一言主の大神が人に乗り移って文武天皇に讒言した。朝廷は優婆塞の母を人質として行者を捕え、伊豆の島に流した。伊豆の島での優婆塞は海上を陸上のように走り、山上からは鳳凰のように飛んだ。昼は勅命に従い島内で修行し、夜は富士山で修行をした。三年がたち、朝廷から特赦が下って、優婆塞は朝廷の近くへ帰ったが、ついに仙人となって空に飛び去った。ところで道照法師が唐に渡り新羅の五百の虎に招かれ法華経を講じた時に虎の群れの中に一人の人がいて、日本語を話し、それは役の優婆塞であったという。また、一言主大神は優婆塞に呪縛されて、今の世になっても解けずにいるという。この優婆塞の霊験の話はあまりに数多くあり、いちいちあげるのも煩わしいので省略することにした。

『日本霊異記』より要約

修験道の開祖とされる役行者・小角の話だ。先だって『続日本紀』文武天皇三年五月のところに記述があり、そこでは行者の能力を妬んだ人の讒言で伊豆の島に流されたとある。前段の有名な部分はああでもないこうでもないと無数に解釈もあり、また派生伝説もたくさんあり、ここでその意味合いを特に固定することもないだろう。おおよそこれ(『続日本紀』と『霊異記』の記述)が役行者伝説の根本の記述だと知っておけばよい。
むしろ後段の部分が色々な紹介だとカットアウトされていることが多いので、そこを注意しておきたい。道照法師とは道昭のことで玄奘三蔵に師事した僧だが、唐にいたのは七世紀中頃で役行者はまだ二十歳くらいのはずだ。皆伝説だと言えばそうなのだが、話の順序だけ見ると、仙となって飛び去った後の行者が出現しているようにも読め(年代錯誤なのだがそのような意味で書かれているのだろう)、その後の役行者伝説の拡大の布石になってるといえるだろう。
また、すでにこの時期(書かれた時期、八世紀後半と思われる)に役行者伝説が数多く語られていた所も覚えておきたい。書き下し文では「其の奇しき表(しるし)を示ししこと多数にして繁きが故に略すらくのみ」とある。

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中巻 蟹と蝦(かえる)との命を贖ひて放生し、現報に蟹に助けられし縁 第十二

山背国紀伊郡に、仏道を良く信じる慈悲深い女がいた。聖武天皇の御代に、村の牛飼いの童が八匹の蟹を焼いて食おうとしていた。女はそれを見て着物を脱ぎ与えて蟹を買いとり、義禅師に願を掛けてもらって放生した。またある日、女は山で大蛇が蛙を飲もうとしている所に行会った。女は自分が大蛇の妻となるから蛙を見逃してほしいと頼み、蛙を助けた。このことを行基大徳に相談すると、行基は驚いたが、ただひたすらに三宝を信ずるようにと言った。やがて夜、大蛇がやって来て、屋根に穴を開けて入って来た。しかし、女の所には寄って来ず、暗闇の中何やらドタバタと争う音のみが聞えた。翌朝になってみると大きな蟹が八匹集まって、大蛇をズタズタに切り裂いていた。

『日本霊異記』より要約

有名な蟹満寺縁起の紹介のところで、「『日本霊異記』にすでに蟹満寺の話がある、という書き方をしているものがあるのだが、『日本霊異記』にあるのは蛇婿入・蟹報恩型の説話ではあるが、蟹満寺の縁起というわけではない」と注意したのがこの話である。同じ山城の話だが、蟹満寺縁起の娘が寺の北方・久世郡の人であるのに対し、『霊異記』の話の舞台はさらに北の紀伊郡、深草あたりの話だとされる。また、『霊異記』には筋がほぼ同じ中巻第八話となる置染臣鯛女なる女が主人公の話があるが、その舞台は現在の奈良市三碓町あたりである。
『霊異記』の二話は特定の寺の縁起というわけでもない。蟹満寺縁起としてこの話が語られるのは『今昔』巻第十六の第十六「山城の国の女人、観音の助けによりて蛇の難を遁れたる語」であり、これは『法華験記』に同話がある(蟹満寺の縁起となっている)。『今昔物語集』は正確な成立年代が測り難いものだが、『法華験記』は長久年間の成立なので、『霊異記』の二百年ほど後である。蟹満寺縁起の原型話に関してはこのあたりの順番を把握しておくのが良いだろう。
『霊異記』と『今昔』の差として注目しておきたい点としては、まず蟹を助ける方法。『今昔』では家にある魚(ご馳走)と引き換えに蟹を助けるが、『霊異記』は二話とも自分の「着物を脱いで与えて」助けている。蟹報恩の話は「脱皮」がキーワードとしてある可能性があり、ここは要注目だ。次に、『今昔』では結局娘を守る六角堂内に蛇は入って来ることができないが、『霊異記』では二話共に「屋根に穴を開けて」侵入して来ている。屋根の穴は蛇の領分なのだ。ここも要注目だろう。
また、逆に共通するかもしれない要素に秦氏の土地である、という点がある。蟹満寺の地が秦氏の機織り文化の要地であった事は紹介したが、紀伊郡深草というのも要するに伏見稲荷のあるところであり、秦氏の拠点であった。話中行基がやって来ていたという寺は深長(ふかおさ)寺とあり、これは不詳なのだが、概ね和名抄に見る深草寺のこととされる。これは広隆寺の末寺、紀伊(郡)の法長寺の一名であるともいい、やはり秦氏と縁が深い。このあたりのあれこれを、蟹満寺と蟹報恩譚の問題に関してはおさえておきたい。

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中巻 粘土(せふ)の神王のこむらの光を放ち、奇し表を示して現報を得し縁 第二十一

東大寺ができる前、そこに寺があり金鷲(寺)と号していた。金鷲(こんす)優婆塞がそこに居たのでそういった。金鷲優婆塞は執金剛神の土像を安置し、その像のはぎ(こむら)に縄を掛けて引き結び、昼も夜も礼拝を休まなかった。時に像のはぎは光を放ち、この光が皇居にまでとどいたので、聖武天皇が勅使を使わし訪ねさせた。事情を知った天皇がなにが望みかと金鷲に尋ねると、出家が望みであると優婆塞は答えた。天皇は勅を下して出家を許された。

『日本霊異記』より要約

良く知られる話では、東大寺ができる前そこにあったのは金鐘寺であり、そこに居たのは良弁(となる僧)である。執金剛神像を安置して拝し、師が死した後に像の足に五色の紐をつけ供養した所、そこからの光が王宮を照らし聖武天皇と邂逅することになる。ちなみに執金剛神像は今も東大寺にある(国宝)。
では金鷲優婆塞が良弁なのかというと、『霊異記』では特にそういう感じはない(現在は概ね良弁の出家前の名が金鷲なのだという了解になってはいるが、憑拠はない)。伝説では赤子の時に金の鷲に攫われて奈良にやって来た良弁であり、なるほど金鷲優婆塞とはその故事にちなむ名のようではある。しかし、『霊異記』には別に鷲に攫われる赤子の話があり(「嬰児の鷲に擒はれて他の国にして父に逢ふこと得し縁 上巻第九」)、これは単にその女子が後に父親と再会する、というだけの話であって特に聖人の伝説であったり寺の縁起であったりするわけではない。
すなわち、良弁伝説は『霊異記』の頃にはまだ成立しておらず、金の鷲に攫われたの伝もこの金鷲優婆塞の名が先にあったればこその「本歌取」ではないかと思えるのだ。もっとも大鳥に攫われる赤子が英雄となる筋はそれはそれで広くあるわけだが。
いずれにしてもこの話は相模にも大いに関係する。何となれば良弁は金の鷲に攫われた「相模の由井(鎌倉由比)の赤子」とされ(近江とも)、良弁が両親と再会し相模に戻って創建したのが相州大山の大山寺ということになっているのだ。そういう『大山寺縁起(絵巻)』が相模にはデンとあるのである。もちろんこれはこれで重要かつ面白いのだが、相模人的にあまりこちらばかり推し立てて「良弁上人はこの相模の国のおー」と『霊異記』の金鷲優婆塞の話も知らずに大きな声をあげてしまうとハズカシイのであります(笑)。

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中巻 慳貪に因りて大きなる蛇と成りし縁 第三十八

聖武天皇の御代に、奈良の馬庭の山寺の一人の僧が、臨終にあたって弟子に、死んでから三年経つまでは部屋の戸を開けてはいけない、と告げた。そしてその僧の死後、四十九日を過ぎると、大きな毒蛇がいて、部屋の戸口に伏していた。弟子が蛇を教化し、部屋の戸を開くと、銭三十貫が隠しためてあった。弟子はその銭をもとに経を読み、供養した。これは僧が銭をむさぼり隠すあまり、大蛇に生まれ変わって守っていたということだ。須弥山の頂上は見えても欲の山は限りなくて見えないとは、このことを言うのである。

『日本霊異記』より要約

『今昔』20-24はこれをもとにした話。また『今昔』14-1、14-4など(メモ)。すっかり「強欲の果てに蛇となる」という話となっているが、死して後竜蛇となって塚(墓)内の財宝を守るというイメージは世界的に見え、単純な欲心の戒めの話より古いだろう。人が死んでしばらくは蛇の姿になって屋根下に止まっている、などという伝承もままある。蛇の姿になるのが強欲のせいだというのはこの時代になっての仏教的再解釈と思って良いだろう。それが良くイメージできる一話。

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下巻 女人の石を産生みて、之を以て神とし斎きし縁 第三十一

美濃国方県郡水野の郷楠見村に、二十余歳となって嫁ぐことなく男も知らぬ女がいた。桓武天皇の御代、延暦元年の二月下旬にこの女が二つの石を産んだ。大きさは五寸四方でひとつは青白の斑で、ひとつは真っ青だった。(石は)年ごとに大きくなっていった。ところで隣郡の厚見郡の鎮守の大神・伊奈婆の大神がかんなぎに神がかりして「その産んだ二つの石は、わが子である」と言った。そこで家の中に忌籬をたてて祀った。往古よりこのような話は聞いたことがない。

『日本霊異記』より要約

伊奈婆の大神というのは美濃国三宮の伊奈波神社のことだとも、八代の方県津神社のことだともされるがはっきりしない。産まれた石は岐阜市金神社にある「黒岩様」のことだともいう。いずれこの地で没したという伝のある五十瓊敷入彦命に関係する話と思われるがよくわからない。
ともかく、これは処女懐妊伝説であり、石を産む話であり、成長する石の話でありと短い中にいろいろなコードが重なっている一話だ。すんなり一つの話になっているが、こう揃った話はほかに見ない。概ね卵生説話の一系であるととらえられ、同『霊異記』の下巻十九話「産み生せる肉団の作れる女子の善を修し人を化せし縁」とつなげて考えられる。が、後者は肉の塊の卵から女子が生まれるのであるのに対して、伊奈婆の神の子は生まれた結果が石そのものなのではある(神々の時間はきっと気長なのだろうから、「この先」石から何かが孵るのだ、という線もあるが……)
朝鮮半島から色濃い卵生神話と、うちでは「蛇の卵」のコードで語られる成長する石などの話は、密接に絡み合っているけれど根が違う、という感じがしているのだが、『霊異記』の二話の比較検討は、この問題をダイレクトに扱う場になるだろう。

古記抜抄『日本霊異記』

古記抜抄
「古記抜抄」は、龍学の各記事から参照することを目的とした、日本の古典(主に説話)文学からの抜書きです。原文・書き下し文は割愛し、その話の筋を追えるように要約と簡単な解説によって構成されています。現在は以下の各書についての抜書きがあります。