恵比寿神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.08.29

祭 神:夷子神
創 建:享保元年
例祭日:不明
社 殿:不明/南南東向
住 所:下田市須崎

社頭掲示など

恵比寿神社
恵比寿神社
フリー:画像使用W840

下田市須崎の先端、恵比寿島に鎮座される。須崎の中央までは下田駅からバスがある。そこから恵比寿島までは徒歩10分くらいで、島へは橋が渡されているので歩いて行くことができる。

恵比寿島
恵比寿島
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神社そのものの創建は古くなく江戸時代からのもの。もっとも記録されるような「神社」としては、だろうが。社頭の由緒書きを載せておこう。

恵比寿神社由来
この島の上にある神社は享保元年(西暦一七一六年)、今から二八四年前の江戸時代に創建されました。大漁・商売繁昌・縁結び・家内安全など大願成就の神社として信仰を集めております。
 えびす講 毎月十三日
 平成十二年三月七日
 恵比寿神社奉賛会

社頭掲示より引用

しかし、もともとこの恵比寿島は神社の鎮座地というより祭祀の場であり、この島上からは下田市指定文化財ともなっている祭祀遺跡が発掘されている。これも島にある解説文を引用しておこう。

市指定文化財:夷子島遺跡
昭和四十九年三月二十日指定 史跡
夷子島の島頂からは、七世紀から八世紀のものと思われる須恵器とともに、祭祀用の滑石製臼玉や手捏土器が多数発見された。これらの遺物の出土は、当時、この夷子島の島頂に於いて神を祭る儀式(祭祀)が営まれていたことをうらづけている。また、祭祀遺物が発見された土層から、焚火の跡が三箇所も認められており、古代の人々はこの夷子島に集まって火を焚きながら、海の彼方の神々を畏敬の念をもって祭ったものと推定されている。白浜の火達山遺跡、三穂ヶ崎遺跡、田牛の遠国島遺跡等とともに、海を信仰の対象として営まれた祭祀遺跡の代表的例である。
 昭和五十九年一月三十日
 下田市教育委員会

掲示より引用

白浜とは元三島大社でもある伊豆下田・伊古奈比咩命神社(白濱神社)のことであり、現代にまで「火達祭」は継承されている。今島嶼へ向って火を焚く祭が伝わるのはこれだけだろうか。伊古奈比咩命はもとは三宅島の女神で、伊豆三嶋大神最愛の后神とされる。田牛の遠国島は特に式内等の古社とは関連づけられないが、私は南伊豆町手石を中心に鎮座する式内:竹麻神社三座の一座は田牛にあったと考えるべきだと思っている。竹麻神社三座は三嶋大神の第一后とされる神津島の女神・阿波命にまつわる。

そしてここ須崎は両神社が鎮守なのだが、今はこの伊豆三嶋信仰とどういう関係があったのかはっきりしない。私は新島ないし三宅島の女神と係る社であったのではないかと考えているが、その辺りは両神社の項に述べた

古代の焚火祭祀の跡
古代の焚火祭祀の跡
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いずれにしても、ここ恵比寿島及び恵比寿神社は古代の伊豆三嶋信仰を考える上で第一級の重要地であると言えよう。海側に行くと太平洋が一望できる。写真ではややかすんでいて中央に神子元島が見えるだけだが、空気が澄んでいたら伊豆諸島がずらりとならぶ景観を目にすることができるだろう。

恵比寿島から外洋を望む
恵比寿島から外洋を望む
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参拝記

須崎恵比寿神社へは平成二十二年の十月二十三日に参拝している。蓮台寺から下田市街さらに須崎の先端まで歩いていった。実は恵比寿島に恵比寿神社があるのかどうかわからないまま行った。なんとなれば下田市は住所変更があり、各資料の住所は変更以前のもので、新住所、現在の地図上で各神社がどこに鎮座されているのかはっきり分かりにくいのだ。

さらには恵比寿島の焚火祭祀跡のことも知らなかった。白浜の火達祭のことは知っていたが、同様の祭祀跡が各地にあることを知らなかったのだ。ここ恵比寿島の解説でそれを知り、一気に古代伊豆三嶋信仰がリアリティをもったことを覚えている。上の海を望む写真の光景を眺めていた瞬間が、個人的に伊豆に関する転換点だったと思う。

新旧の灯明
新旧の灯明
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さて、もう一点。伊豆三嶋信仰とは直接関係ないが、ここ須崎及び恵比寿島の海には私が大変重視している伝承の系統がある。黒潮の流れに沿って分布していると考えられるお話だ。これを紹介しておこう。

おまつのえご:
須崎の恵比寿島の近くに越背(おつせ)という部落があり、おまつ、という美しい娘があった。須崎小町と須崎の男達が憧れる程の器量良しだったが、誰になびくということもなく毎日海に潜ったり畑を耕したりとたった一人の母親のために一生懸命働いていた。
あるとき大嵐が過ぎた日、おまつは磯から大きな蛸の足を一本取ってきた。母は気味悪がったが、折角なので食べることにし、食べきれないので村の皆にも分けた。
そして、二三日経つとおまつはまた一本の蛸の大足をとって来た。そんなことが続き、七本目の蛸の足をおまつがとって来る頃には村の皆も慣れて「今度は八本目の足と蛸を生け捕りにする番だな」と冗談までいう者さえあった。 しかし、またしばらくして平磯へでかけたおまつは帰らなかったのだ。
村中大騒ぎで大蛸のいそうな海をくまなく探したが、とうとうおまつの姿は見つからなかった。村人は器量良しのおまつを大蛸が七本の足でひきつけ、八本目で取り殺したのに違いないと嘆いた。それからこの磯のひと際深い深みを「おまつのえご」と呼ぶようになった。

『下田市の民話と伝説 第1集』より要約

「えご」とは土地の方言で岩礁と岩礁との間の深みのこと。この「蛸の足の八本目」という話が、九州熊本・千葉・日本海側にも秋田にある。私はこれは黒潮の伝えた海人族の話だったのだろうと思う。ちなみに熊本の「たこの足」は「おこん」婆さんという欲深婆さんが主人公で『まんが日本昔ばなし』にも集録されていた。

まだこの話がどのくらい分布しているのか根を詰めて調査していないが、伊豆半島の先端にもあったというのは嬉しいかぎりだ。しかもおこん婆さんのような欲深を諌める話にもなるが(千葉もそう)、秋田の「さんこ」という娘の話や、おまつの話は海神に見初められる娘の系統であり、より古い可能性がある。

ここ須崎の海はそんな大きな流れがもたらした物語の眠る海でもあったのだ。

須崎の海
須崎の海
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恵比寿神社(下田市須崎) 2011.08.29

伊豆神社ノオト:

参考:

下田行
下田行(神社巡り編)
2010.10.23日の下田市の神社巡りの模様。後半下田市街から須崎まで歩いております。
▶下田行