影取池

門部:日本の竜蛇:相模周辺詳細:2012.03.06

場所:神奈川県横浜市戸塚区
収録されている資料:
『日本伝説大系5』(みずうみ書房):「影取池」
タグ:影とり/竜蛇と長者


伝説の場所
ロード:Googleマップ

水底の大蛇は水面に映る人の影を呑む、という認識が全国にある。また、そのような魔に影を取られてしまった人は長くはない、ないし、著しく弱まってしまうともされる。これは影が魂の表象とされたことによる。

つい最近まで写真に撮られるということは魂を抜かれることだと撮影を嫌がるお年寄りは少なくなかった。この根強いモチーフは、別々の系の伝説においても共有され、その伝説間を連絡させて行くハンドルともなる。

影取池:要約
昔、遊行寺の近くに、森という大尽がいた。森家は大蛇を飼っていて、「おはん」と名づけ家人一同可愛がっていたが、あまりの大食いにたまりかね、蛇にいい聞かせて、藤沢宿の東はずれにある池に捨てることにした。一説には森家の窮状を察して自ら出ていったともいう。
おはんはこれまでのように餌を与えてもらうわけにはいかなくなり、思案の末、池の水に映る旅人の影を取って食ってみたところ腹がふくれた。これより池のまわりでは影や所持する米酒がなくなることが度重なることになり、池は影取池、村も影取と呼ばれるようになった。
影を取られた人はやがて弱って死んでしまうので、困った村人たちは影取池の大蛇を退治しようとした。しかし、色々な名人に頼んでも大蛇は神出鬼没で捕らえることが出来ず、かえって名人たちの方が影を取られてしまう有様だった。
ある時、江戸の鉄砲撃ちの名人が来たので、大蛇討伐を頼んだ。名人は蛇がおはんと呼ばれていたことを知り、池の畔で「おはんさん」と呼びかけた。大蛇は懐かしい名を呼ばれ、森家の人が迎えに来てくれたのかと喜んで姿を現し、鉄砲で撃ち殺されてしまった。
このことから、鉄砲を撃った所を「鉄砲宿」と呼ぶようになった。影取池はなくなってしまったが、元文五年の東海道駅路図にも、かげとり池と記載されている。

みずうみ書房『日本伝説大系5』より要約

『大系』には『戸塚区郷土史』より微妙に細部の表現の差がある二話が掲載されている。また、他の紹介資料もそれぞれ少しずつ表現に差があったりするのだが(大筋はみな同じ)、ひとまず『大系』の話をベースに中庸な筋としてまとめてみた。

先に土地の区分のことを注意しておこう。横浜市の大部分は武蔵国だが、戸塚宿までは相模国だった。だから戸塚よりも藤沢側のこの影取の伝説も相模の伝説である。さらに、地域区分的には戸塚の伝説となるのだが、引いた話にもあるように藤沢宿から東の端を見た舞台の伝説であり、実質的には藤沢の伝説であると言える。「森」という一家は実在の家であり、藤沢宿の大鋸で活躍した長者家なのだ(後述)。

では順を追ってひとつひとつのモチーフを見ていこう。遊行寺とは時宗総本山の遊行寺のことであり、藤沢宿の中心境川の畔にある。この辺りから影取までの間に「大鋸(だいぎり)」という地名が今もあるのだが、船大工たちの土地であり、森家はその頭領だったという。ここに見る、大蛇を飼っている森家の様子は間違いなく「屋敷蛇を祀り飼う長者家」のそれである。既に紹介した蛇を飼っていた長者の話「五郎兵衛淵」を参照されたい。よく似ている。つまり、「影取池」も長者の盛衰の話なんではないかとまず考えてみることが出来る。この点は最後にもう一度振り返ることにしよう。

そして「おはん」は捨てられてしまうのだが(大飢饉があり、森家の窮状を察して自ら去ったとも)、移り住んだ池で人の影を呑むようになる。同相模は大磯の漁師の伝えた「ボラのヨーバミ」の話を紹介したが、そこに山陰・石見の「影ワニ」という同じく影を食う怪の話を載せたので参照されたい。

同時に、そちらでも述べたように、このモチーフは〝あちら(祖霊の世界)〟と〝こちら(現世)〟の近接する空間に出現するものなのだ。これが即ち「水鏡」である。広く井戸や池沼の水面を鏡として特に女が髪を梳くことを禁じるならわしがある。また、井戸には決して櫛や笄を落としてはいけないともいう。〝髪〟という点はさて置くが、これらはその水面、水鏡にあちらとこちらの境界が出現していることを物語っている。そこに影を映せば、その水底に居る水神・蛇に見初められ、引かれてしまうのだ。逆に、既に〝あちら〟へ行くことが決定している、あるいはそこへ接近することを生業とする生贄譚の娘や巫女は水鏡を使う。即ち「化粧の井戸」のことである。そこには日常と呪術の境もある。いずれにしても影を取る水面がそこにあるということは、このような境界がそこにあるということなのだ。

この影取池は天保十二年の『新編相模風土記稿』に「此処にわずかの清水流る。土俗伝て、昔は池あり、池中に怪魚すみ夕陽に旅客の影池中に投ずるを喰ひしより、影取の名残れりと云う。」とあり、話中にもある元文五年の東海道駅路図には、「蛇の池、影取池」と記されている。さらに、この土地一帯の地主であった羽太家(現存)には慶安三年の記録もかつてあったという(今はない)。タイトルイメージの写真左が羽太家、写真を撮っている場所には杜があり、羽太家代々の墓があった。

影取池は『風土記稿』の時代には既に消滅しており、正確な場所は人によってまちまちに論じられるのだが、私はおそらくこの羽太家の持っていたあちらとこちらの境界を示す神池だったのだと考える。すなわち、その杜から同写真の畑の部分が池だったのだろうと思う(一方で一段下った川沿いだと見る向きもある 下写真)。

下った川沿い
下った川沿い
フリー:画像使用

さらにタイトル写真の右端に或る杜は「諏訪神社」なのだが、社頭に「影取池は、この神社の奥にあったと伝えられています」とあった。諏訪神社自体は明治四十年の勧請なのだが、それ以前からここが奥に神池を望む羽太家の神祀りの場であったことは十分考えられる。

諏訪神社
諏訪神社
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ところで、藤沢市公式ウェブサイトにある「影取池と大鋸」の稿では「羽太家の隣にも諏訪神社が鎮座している。諏訪の神が蛇体であることは、『神道集』『諏訪縁起』にも見えていて……」と、諏訪神社勧請が大蛇伝説に由来する可能性を指摘している。

「影取池と大鋸」(webサイト「藤沢市公式ウェブサイト」)

諏訪神社
諏訪神社
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これも無い話ではない。同藤沢市石川の諏訪神社では池に大蛇がおったと言い、本殿裏にその大蛇の「母」であるという石神を祀っている。さらに相模で見ていくと、座間市入谷の諏訪さんが鈴鹿の神と有鹿の神との戦いに蛇身で参戦している。秦野市の今泉神社はもと諏訪神社で、信州から水を飲みに飛んできた大蛇が落ちた所だったと伝えている。加えて蛇との縁の強い社宮司を諏訪のミシャグチの神の末だとするならば、枚挙にいとまがなくなるだろう。この線は気に留めておいて良いと私も思う。

まとめると、森家とその一派であったと思われる影取の地主羽太家の神池がここにはあり、それは蛇を祀るものだったと(少なくとも周辺の人には)思われていたということだ。そして、その蛇が去るのと同時に長者は没落するのである。鎌倉時代に船大工として、下って後北条時代には城の大工として活躍した森家とその一派は、近世に至りその需要がなくなるとともに勢力が縮小して行った(もっとも今に至るも小さい家ではないのだが)。大鋸の地にも代わって鉄砲鍛冶たちが住みつくようになり、鉄砲宿と呼ばれるようになる。

これが即ちおはんが鉄砲撃ちに討伐されるという伝説なのだろう。この読みがあたっているならば、伝説は見事に実際の土地の変遷を物語っているのだと言える。しかし、一般にこのような蛇を祀る長者や、その棲みついた池の怪などは概ね農民たちの伝える伝説であるとされる。ところがこの影取池の主役の森家と大鋸の大工たちはそうではない。大鋸境川の畔には弟橘媛を祭神とする「船玉神社」も鎮座される。

船玉神社
船玉神社
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そして、その境川河口の先には江の島があるのだ。森家が蛇神を祀る船大工の家だったとして、江の島弁天と無関係だというのは不自然だろう。ここには農村の伝える屋敷蛇とは少し違う蛇神の流れがある可能性もある。〝あちら〟と〝こちら〟の境界に出現する蛇。この「おはん」の伝説は、影取の話はそのような大枠にまで視野を広げて見るべきものではないのか、ということを言っている。是非、広げて見ていきたい。

memo

影取池 2012.03.06

相模周辺詳細: