五郎兵衛淵

門部:日本の竜蛇:北海道・東北:2012.02.28

場所:秋田県横手市塚堀
収録されているシリーズ:
『日本の民話2 秋田・出羽篇』(未来社):「五郎兵衛淵」
タグ:蛇息子/蛇報恩/屋敷蛇


伝説の場所
ロード:Googleマップ

蛇が屋敷のヌシであり、粗末にすると家が傾くという話が広くあり、「実際飼っていた」という話もつい最近まであったものだ。「聞いた話じゃぁ」という事ならなおさらである。特に地域のお大尽・長者家には「あそこは蛇を飼っているから」と富の理由が語り続けられていることがままある。そして、その様な屋敷蛇の中には、その蛇が「蛇息子」の枠組みとして語られる場合もある。

大戸川
大戸川
リファレンス:横手かまくらエフエム画像使用

むかし秋田は横手市の大戸川の近くに住む、五郎兵衛というお爺さんが畑でかわいらしい蛇を見つけた。子のない五郎兵衛は連れて帰り、蛇に太郎と名づけ子のようにかわいがり育てた。しかし、太郎はドンドン大きく育ち、近所の人やお婆さんも怖がるようになってしまった。
仕方なく五郎兵衛は太郎を泣く泣く大戸川へ放した。いつしかそこには淵ができ、淵にはに大きな蛇の影が出るようになった。太郎がヌシになったんだろうと噂になり、五郎兵衛淵と呼ばれるようになった。
そんなある時、お婆さんが病気になり寝込んでしまう。五郎兵衛は大雨の中横手の町まで薬を買いに走るが、戻る途中の大戸川の橋が流されて帰れなくなってしまった。すると、川に大木のようなものがかかり、渡ることができた。
五郎兵衛がよく見るとその大木は太郎だった。しかし太郎は五郎兵衛を無事渡した後、幾重にも折れ、濁流に流されてしまった。

『まんが日本昔ばなし』より要約

『まんが日本昔ばなし』「五郎兵衛淵」
『まんが日本昔ばなし』「五郎兵衛淵」

実はこの話、『まんが日本昔ばなし』の底話となる未来社『秋田の民話』の「五郎兵衛淵」では、お爺さんが「孫兵衛」で、蛇が「五郎兵衛」という名となっている(話の筋は同じ)。しかし、『日本昔話通観5 秋田』の「138 蛇息子(原題・五郎兵衛渕」)」ではお爺さんが「五郎兵衛」だ。

また、『横手盆地のむかしっこ』(黒沢せいこ:著・はたはた編集部)においても、お爺さんが五郎兵衛である。話の筋からいって淵の名が五郎兵衛淵という点では蛇の名が五郎兵衛というのが自然なのだが、地元の資料と『通観』の方を反映している『まんが日本昔ばなし』を引いておくことにした。

さて、このお話は先の『通観』上でも「蛇息子」となっているように、蛇息子譚として分類されている。そうでなくても「蛇の恩返し(蛇報恩)」となるようだ。蛇息子譚というのは日本の民話・伝説の中でもかなり異色な話である。

大きく分けると「人の母に、実際に蛇の(蛇体の)子が産まれる、ないし、人の子で産まれたのにだんだん蛇になってしまう」という「実際に蛇」であるタイプと、「かわいい小蛇を授かって、わが子のように育てる」というタイプの別がある。本質的に「蛇息子」というのは前者だけだと思うのだが(女人蛇体の「蛇娘」に対応することになる)、話本来は前者であったのが下っての「マイルド調整」で後者のタイプに変化しているケースもままあるとも思われる。

いずれにしても蛇息子譚に関しては、そもそも「異類の子どもが蛇に集約するのはなぜか」という問題がある。異類婚の方には蛇以外にも狐女房鶴女房・猿婿犬婿等々とあるのだが、子どもとなるとなぜかほとんど蛇しかないのだ。タニシ息子や姫・娘が魚になるケースがままあるが、これはどう見ても水神の眷属ということで蛇息子・娘の亜種であろう。この問題は大きい。が、今回はそういう傾向を指摘するに止めよう。何となれば、今回言いたいのはこの五郎兵衛淵はむしろ蛇息子譚が主軸「ではないだろう」、ということなのだ。

先にもふれた地元の資料である『横手盆地のむかしっこ』の最後のシーンを引用しよう。

おばあさんの病気は五郎兵衛の買って来た薬のおかげですっかりよくなったけど、残念なことに、五郎兵衛の家もだんだんに傾いていったど。
このあたりでは家に住みつく屋敷蛇のおかげで財産を増やしてきた家のことを「蛇かまどの家」ってよんでいます。蛇がその屋敷からいなくなれば、その家の家運が傾くといって蛇を大切にまつってある家もたくさんあるんだどよ。(『横手盆地のむかしっこ』)

webブログ「山&山の花に会いたい」より要約

この地元の話以外「屋敷蛇」という表現はまったく使われていない(当然没落のモチーフもない)のだが、おそらくこの点が「五郎兵衛淵」の主軸だったのだと思われる。すなわち、長者の盛衰と屋敷蛇の話だったのではないか、ということだ。

新潟の方に藁積み(ワラニウ)で蛇の棲み家を屋敷内に設え(ヘンビニウ、という)、屋敷の守りとして蛇を飼い・祀る話があったとされ(『蛇の宇宙誌』東京美術)、同様の(蛇に催促され)藁のニウで清水の上に蛇たちの棲み家を作ったという話が秋田の雄勝郡にある(宮本常一)。雄勝郡は五郎兵衛淵の横手市塚堀からは最短で10キロ程度のお隣である。ヘンビニウに同様の蛇を飼育する風習・信仰が続いていた、一連の話だ、という可能性は高い。「五郎兵衛淵」は巷間のイメージ(蛇息子譚・蛇報恩譚)とは少し違うかもしれない、という点をよく頭に入れておきたい。

では、最後に少し「屋敷神」とは何かという点について「屋敷のヌシ」という観点から追加しておこう。根本的なイメージとして「家(住居のこと)」というものには二つの側面があるとされて来た。まず、家は人工物であり人のものであり、人を主とするものだ、という側面。次に、人工物といえども自然の内にあるものであり、家も自然のものであり、自然を主として戴くものでもある、という側面。現代は前者のイメージしかないが、本来はこの二重の世界観の重なる存在だったと思われるのだ。

つまり「家」には建てた人と建てることを許した土地の(自然の)神という「二つの持ち主」がいるということである。そして、屋敷蛇とは、この「家の自然側の持ち主」のことに他ならない。このイメージが重要かつ現代人には実感の難しい所なのだ。「福虫」である蛇を飼ったら運が舞い込む、というのは既に下ったイメージである。もともとそこにいた(あった)、「あちらとの通路」が保存されるか否かが家の盛衰を決める、ということなのだ(「ボラのヨーバミ」など参照)。

この「五郎兵衛淵」は、他の「飼われている蛇の話」を見直していく起点としてとても重要な話となった(実は「屋敷蛇」が本来だと確信したのはこれを書いている一日前なのだ……笑)。それは蛇息子譚の方の構成に対する理解の更新ともなるかもしれない。

memo

五郎兵衛淵 2012.02.28

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