常南行:美浦、連

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.07.16

この日は猛暑の中茨城県稲敷郡美浦村の方へと行っとりました。この一週間前の続きですな。というわけで「常南行:美浦、連」であります。
前夜、金曜の夜に常南地震がありまして、やや心配な道行きではありましたが、土浦からバスで美浦の木原まで来てみます過程ではとくに被害というものも見えず。大丈夫のようでしたな。
木原につきますと道の辻々にこんな竹が。この後の愛宕神社さんが夏祭りのようで、それに併せて立てられているようであります。ミチキリ……だったんでしょうな。しかしこの青空がこの一日の有様をすでに予告しているのであります(笑)。

その木原の「愛宕神社」さんは、古墳の上の神社さん。その名も愛宕山古墳である、美浦最大、100メートル超の前方後円墳がその本体だ。前方部から登っていく社地構成となっている。

愛宕神社(木原)
祭神:かぐつちのかみ
創建:天正十七年
ここは白旗古墳群と言い、前方後円墳が三基現存しているが、面白いことに三基とも「主軸が筑波山を向いている」。前方部が筑波山に向いてはり出している、ということですな。五世紀の築造とされているが、当時の信仰の要が見えるところなのだ。
もっとも愛宕さんが建てられたのは十六世紀のことだけれど。それに係らず、付近の人々のそれぞれの時代の信仰の要になってきたんでしょうな。
後円部のその先(愛宕神社さんの裏手になる)に、大変な樹が。普通の順路だけ見てるとこういうのを見落とす。神社も古墳もぐるっと周辺を見て回るのが良いのです。
「それぞれの時代の……」という点ではお隣の2号墳も見逃せない。半分くらいの前方後円墳だが、ここは一名「白旗石尊古墳」というのだ。石尊、とは相模大山のことである。写真は後円部から前方部を望の図。
あたくし地元相模の大山さんがなぁ、と感慨深いところだが、その石碑(写真)、この石が何と古墳の箱式石棺の一部だろうと考えられているのだ。古墳時代の石棺におそらく近世石尊さんの字が彫られ、代々信仰されていたのだ。はーん。
この日は美浦の霞ヶ浦の際をたどっております。現在の湖岸の田んぼなんかはみなかつて湖中だったと思われ、写真左の高台(先の古墳群)と下の田んぼの境がかつての湖岸だったでしょうな。そんな風景をたどって行きます。
写真で見えるかなー。白旗古墳群下から見る筑波山。肉眼だとまさに「遥拝」という感じで見えております。かつてはこの間がずっと湖(海)面だったのですな。
道行きに小さな水神社さん。霞ヶ浦に「背面」している。玉造の方は正面していた。あるいはこういった小さなお宮の結構に、例の背面か正面かの問題はあらわれているかもしれない。みな調べてたら猫年が来そうだが(笑)。

そして早くもこの日の本命その一の「弁天塚古墳」へ。ここは黒坂命を葬ったといわれる古墳だ。現在では看板も「黒坂命古墳」になっていた。
黒坂命に関しては話すと長いので端折るが、常陸から陸奥制圧のために北進した古代の豪族の一方の雄である(一方は建借間命)。古墳時代の八幡太郎のようなものだ(違 黒坂命は多珂郡・黒前山(角枯山)で亡くなり、その亡骸が生前愛したこの信太の土地へ運ばれ葬られたと『風土記』にもある。
もっとも江戸時代にここを掘った国学者・色川三中が「そうじゃないか」と書いたのでそうなっているのであり、ずっと黒坂命の墓だと言う伝承が続いていたわけではないようだが。
古墳そのものは古墳時代中期の円墳。ただ、おそらく湖中に浮く小島そのものだったと思われ、特異な地勢を祀ったもの、ということではあるだろう。
黒坂命が亡くなった黒前山(角枯山)に黒前神社があることは以前も紹介したが、そこの氏子さんたちもここに来られていた。こういうちょっとしたものを見ておくとなんと言うか「厚く」なって行くのですよ。
この日はもうのべつまくなしこんなで脳内エンドレスリピートで「少年時代」なのであります。♪ あぁ〜おぞら〜にぃ〜のこされた〜
んが、あまりの暑さにナチュラルハイになると脳内歌手が井上陽水からなぜかサンボマスターに代わり(笑)、「♪ はぁ〜ちがつぅ〜はぁ〜……ユメハナビ!なんだゼえぇぇぇっ!」とか意味不明なシャウトが……
「おまいもう目が死んでるニャ」「お前もニャ」

そんな中を「日枝神社」さんへ。地名も山王。そしてここもまた「山王山古墳」である。規模で言えば先の黒坂命古墳より大きい美浦最大の円墳。未調査であるそうで詳細は不明。

日枝神社(山王)
祭神:大山咋神
創建:不詳・貞享五年再建
ここは管理されてる山王老人会の方が妙に頑張っておられて、社地も庭園さながらなのだが、社殿にも本家日吉大社への参拝記から「山王さん」がいかに立派な神格であるかの解説やらと……愛されていますなぁ。
そしてまた街道にもどるの図。日陰がNEEEEEEE〜!
行く道に道祖神さん。立派な鳥居を作ってもらっております。この辺は大根でなくて蓮根だの茄子だのあれこれが供えられているのだけれど、目をひくのはどこも「小石」が積まれていることだ。内陸地ではこれは見なかった。

牛込から霞ヶ浦を望の図。八幡太郎義家公を追った牛はここから出島へ渡った。また、出島の天王さんがここへ流れついた。牛にまつわる何かの流れがあるところだ。写真中央まではり出しているのが出島。その先が三又沖。霞ヶ浦のヌシは多分そこにいる。
牛込の先は「馬掛(まがき)」というところなのだが、そこに霞ヶ浦海軍航空隊の殉職された方を弔う慰霊碑がある(「五勇士追悼碑」)。ここであたしはギョッとすることになった。
慰霊碑の前に竹が立てられている。これは「息つき竹」じゃないだろうか。ここに遺体があるわけじゃないから、これが息つき竹なら純粋に信仰としての設えだと言える。「あちら」に語りかけるための装置。やはりそれが本質なのじゃないか。

ここまで足を延ばしたのは国土地理院地図になぞの鳥居マークがあったからなのだけれど、先の慰霊碑の脇にこれまたなぞの階段がありましたな。この上だろう。手前には篆書で分かり難いが「不動堂」とある。お不動さんか。
鰐口が吊り下がっており、神社‥‥ではないようだ。やはり、お不動さんですな。海岸には海難事故で亡くなった方を弔うお不動さんがままあるが、ここもそうなのかもしれない。かつては崖下まで霞ヶ浦の波が洗う土地だったそうな。
境内には不思議な地層からしみ出る湧き水も。あるいはここは霞ヶ浦を行く漁師たちが嵐などを除けて避難するためのところだったのかもしれない。

そのまま霞ヶ浦沿いを南東へ。ここに「雁宮神社」さんが鎮座する。この間言っていた景行天皇東巡の折云々、という『風土記』にも見る信太の仮の社がここだ(と思う)。

雁宮神社(大山)
祭神:磐鹿六雁命
創建:大同年中(伝)
同じ話を伝える安房の浮島に同じく料理人の祖、磐鹿六雁命を祀る……のだが……この上ない逆光(TΔT)。イヤーここは難しいですねぇ。曇りの日に撮らないと撮れないかもしらん。
加えてこの網。隣りのゴルフ場からのボールを避けるためのようだ(ネット上にもゴルフボールが乗っている)。んが、なんとも……どーも、ゴルフ場とは相性が悪いね(TΔT)。
ここは稲敷市の浮島とセットで「風土記行」でも重要となる場所なのだけれど、どーにも興ざめな状態ではある。写真は境内社で「塞神三柱」とあった。何をどう勘定したのだ?
さて、そこから西へもどり安中(あんじゅう)というところから北側の字土浦に「陸平(おかだいら)貝塚」という国指定史蹟の大遺跡がある。山がまるごと保存されているのだ。前後するが、先の霞ヶ浦側から眺めるとこんな。
縄文中〜後期の貝塚遺構で、かのモース博士の弟子であった日本人が初めて学術調査を試みたところ、ということで日本考古学の原点でもある。ま、今はみんな土中に保存されているのだけれどね。
一帯はこんな風にきれいに管理されている。ところで、今回古墳をずっと見てきたが、ここ陸平貝塚のある一番大きかったであろうこの島には古墳がない。もしかしたら古墳時代、この周辺は禁足地のような扱いだったのじゃないかと思っている。
敷地内には竪穴式住居の復元模型もありましたな。なんか可愛い。いずれにしても楯縫神社さんとかともからんで、この土地の地勢と信仰の関係に関してはとくと考えねばイカン。

その辺はともかく、ここの本命はこちら「大宮神社」さんなのであります。「大宮」ながらこれまでの鹿島系ではなく、御祭神に天太玉命がおわするという社。忌部祖神ですな。

大宮神社(土浦)
祭神:天照皇大神
   日本武尊
   天太玉命
創建:白鳳元年(伝)
ここから南南東8キロにかの「あんば様」、大杉神社が鎮座するが、はたして忌部の繋がりというのが追えるのか、という点で大変重要な神社なのであります。
陸平貝塚のお陰で「本来の社叢」というのが分かるところでもありますな(同一敷地内)。社叢とはもう、山丸ごと、とかそういう規模だったのだ。
そんなこんなで予定していたこの日の「大物」は巡りました、ということでぶらぶら寄り道しながら(実はグロッキーで)バスの通る道の方へと。そんな道すがらのこんな丘もみんな「何か」に見えてきますなぁ(笑)。特に資料上記録はないけどね。
霞ヶ浦周辺には「片葉の葦」の話が大変多い。こんなんかねぇ。

そんな帰り道途中の「鷲神社」さん。ここはもう稲敷市でありまして、まだ資料未入手故に委細不明。が、天日鷲命を祀る神社に相違なかろう。
天日鷲命は先の天太玉命に従う神であり、阿波忌部の祖である。ここもさっき言った「忌部ルート」攻略の際は必ずや線上に乗って来る神社さんであろう。
しかし鰐口と鈴の両方ってのははじめて見たね。どういう塩梅で鳴らしたら良いか迷った。ていうか何回もやっちゃった(笑)。

さらに前回終了ポイントの方までもどってきますと「姥神社」がある。ここは神社庁リストにもなく、資料が存在するのかどうかも分からない。
お隣のおばちゃんに少しお話を聞いたのだが、もとは大きなお屋敷があって、その某氏のお屋敷神のようなものだったのだと言う。その某氏はお店潰れちゃってどこかへ行ってしまって、姥神さんだけが残った、と。特にお祭などもしていないそうな。
んが、地図にも見るようにここは小字姥神である。バス停も姥神である。ちょっとその某氏におさまる話なのかどうかというと微妙なところだ。阿弥の方のように鹿島(ないし普都大神)の后神にまつわる何かがあったのじゃないか……あったらいいなー(笑)、と思っているのだが。

そして這々の体でまたまた大谷へともどってきまして、前回力尽きましてスルーしてしまいましたこの石段の続く「鹿島神社」さんへと。今回のが疲れ度が上な気もするが(笑)。

鹿島神社(大谷)
祭神:建御雷之男命
配神:高皇産霊命
   宇賀之御魂命
   誉田別命
   水波能売命
創建:景行天皇の御世(伝)
ヒイコラと登りますと……ブロック塀ですと?いやぁ〜、この発想はなかった。
景行天皇の御世の鎮斎(伝)、という以外特に何が伝わるというところでもないのだけれど、あたしは阿弥神社が「竹来三社」を従えていたような結構が楯縫神社の方にもあったのじゃないか、と思っており、そうだとすると怪しいのがここである。
これは前回の幡神神社や、先の姥神社などの分布からそう思うようになったわけだけれど……ま、特に「そうに違いない」というほどの何かはまだ見つからないのだけれどね。はてさて、何をどう調べたらよかでしょうか……と鹿島さんを前につぶやきつつ。
あたしは阿弥の複数社を分布させる結構は古墳時代の古墳の分布が同族内の関係を示していることと繋がっていると考えている。んで、この日は楯縫神社周辺美浦の古墳群を回ってみたわけなのだ。とりあえず要所はおさえた……はずだ。
こうして見て歩いた記憶から古代信太の地のなにかが見えて来るものか否か。古代常陸の雄、黒坂命の横顔でも見えて来るようならしめたものなのだが。/「常南行:美浦、連」・了

補遺:


美浦周辺の海面上昇地図
フリー:画像使用

上で言っていたあれこれを地図にするとこうなる。7mの海面上昇図。陸平貝塚のあるもっとも大きな島嶼には古墳がない(下っての「塚」はあるが)。
信太一宮・式内の木原楯縫神社の西側にある名の入っていない古墳は前方後円墳で(浅間塚古墳)、実は美浦最大の古墳群である。んが、今はシロウトが行ってどうなるという感じでもないので脇を通っただけ。しかし、木原の土地も古代から重要な土地であったのは間違いない、ということだ。

常南行:美浦、連 2011.07.16

陸奥・常陸編:

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