予祝編:薩摩:山川(仮)

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.07.25

今は指宿(いぶすき)市になった旧山川町の「予祝編」。薩摩半島の先端部ですな。薩摩國の郡としては開聞岳に近い方が頴娃(えい)郡、山川湊の方が揖宿(いぶすき)郡でありました(つまり山川町は双方にまたがっていた)。現在指宿市のうち大字名が「山川○○」となっている地区が旧山川町。今回の行程では山川岡児ヶ水・山川浜児ヶ水・山川大山などは頴娃郡の範囲だったそうな(以下「山川○○」の山川の表記は省略)。
もともとは山川湊周辺を山川といい(後福元になった地区)、ここは南蛮貿易の拠点であったところ。大隅佐多岬の向こうに浮ぶのが種子島であります。島津氏の琉球出兵後は琉球貿易の拠点ともなった。そのような要港であり、現指宿市の他の二地区(旧開聞町地区・旧指宿町地区)と比べると、南薩独自の、という民俗のトーンはやや低めで、山川には多彩な南西諸島の文化と中央からの文化が渾然としている観がある。

▶「火山銀座探検
 (指宿まるごと博物館)

また地学的には「町内ではあらゆる火山地形の標準型をみることができる(角川地名)」と書かれるようなところであって「火山銀座」などともいうそうな。そんな山川。

岡児ヶ水:龍宮神社

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ということでスタートは旧山川町内でも最南端の長崎鼻という岬から。このあたりは岡児ヶ水(おかちょがみず)というまた摩訶不思議な地名なのだけれど、これはまたあとで。
この岬には「龍宮神社」が祀られている。単立社で沿革などは不詳。

▶「龍宮神社
 (本物。の旅鹿児島)

浦島伝説推しだが豊玉姫を御祭神とする、などと微妙な話になっているが、ちょっと浦島伝説があったかというとよく分からない(伝説集などには見ない)。長崎鼻の西側の浜を無瀬浜というが、ここには浦島太郎なり何なりが「出かけて行った」浜ではなく、豊玉姫が「上陸された浜」である。

無瀬浜
無瀬浜は、その昔、豊玉姫が龍宮から開聞へ行くときに上陸したところだといい、また、大宮姫が開聞へ行くときに船を着けたところだともいう。そのとき、無瀬田の米で御飯をたいて一行に差し上げたよしみで、山川村今村門の弥五右衛門は、毎年、開聞神社に無瀬田の米を奉納してきたという。

かめ割り坂
その昔、豊玉姫が龍宮から千年酒を持参して、開聞神社に奉納しようと無瀬浜に上陸した。開聞へ向う途中、酒がめを落として割ってしまった。そこで、ここを「かめ割り坂」と呼ぶようになったという。また大宮姫が郷里開聞へ帰るときに、二つのかめが海上に浮いて船のあとをついてきた。姫が無瀬浜に上陸して開聞へ向う途中、この坂で一つのかめが割れてしまったので、この名がついたともいう。

『山川町史』より引用

大宮姫というのは天智天皇の宮に入ったという、あの鹿から産まれた鹿足の姫ですな。大変重要な伝説なのだけれど、これは詳しくは旧開聞町の行程の方で(以下特に記さないものは『山川町史』より。土地の伝説はこちらにも:

▶「神話紙芝居
 (指宿市公式サイト)

ともかく、これらをはじめ、基本的には「海彦・山彦(と豊玉姫)」の伝説が広く濃く語られた海であって、竜宮に行ったというのも「浦島太郎」のイメージで推すのはどうかという気がするのだ。同じようなものじゃん、と思うかもだが、これは結構な差がある。
簡単にいうと「土地の祖」を語った伝説なのか否か、という差が出るのだ。浦島太郎の話の型だと、「その子孫がこの土地の人だ」という話にはなり難い。山幸彦と豊玉姫の場合は、生れた子から土地の人々は広がっていったのだ、という話になるのである(皇祖神話はさて置き)。
この差はこの土地の人の竜宮への信仰が自らの根源を語るものなのか否かというかなり重大な差となり、迂闊に(そんな話はなかったのに)「浦島太郎の海だ」とするのはどうかと思うのだ。もっともこの地も漁から農への重心の移動が大きかった土地のようで、そういう事情が背後にあるかもだが。

徳光神社・ひなじょゆえ

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それは鎮守さんからして象徴的なのだが、龍宮さんは土地の鎮守というのではなく、岡児ヶ水の鎮守のお社は「徳光(とっこう)神社」というお社になる。

▶「徳光神社
 (鹿児島県神社庁)

「玉蔓大御食持命」なるすごい名前の神さまを祀っているのだが、こちらは神話時代の話ではなくて、これすなわち宝永年間に琉球からサツマイモを持ち込んだ前田利右衛門というこの地の商人のことである。故に別名「唐芋神社」というのだそうで、地元でも「からいもさん」であるようだ。「薩摩芋(とはこの地ではいわないが)」はつまりここを発祥とするのだ。よく知られるようにこの地の飢饉を大いに和らげ、利右衛門は神さまになっているのであります。
ちなみにタレントの徳光和夫氏が苗字と字が同じだからといって、日本テレビ社屋屋上に勧請したそうな(笑)。神社ってそんな理由で勧請できるものなのですかい。
さておき、玉蔓大御食持命以下には(豊受大神)・大山積神・豊玉姫神・事代主神・塩土翁などと海の神々が並んでいるのが重要だ。この海に向う岬の付け根でこれらの海神勢を押しのけての村社「からいもさん」であるのが良くわかる。土地柄、芋焼酎関係者がお参りに来たりはせんのだろうか。
とまあこのように農にまつわるお社の方に下るにつれて重点が移っている土地であります。そうであるので海の文化は退潮傾向にあるのだけれど、古くからの民俗というなら興味深い事例を持っているのは海の方だったに違いない所でもあり、雛祭りなどにもその痕跡がある。その辺を見ておきたい。
雛祭り(「ひなじょゆえ」という)といっても昔はこの辺りも男女の別なく子どもの産育儀礼であったようだが、奄美大島では「はまおり」が行なわれる時季でもあり、子どもの成長と祖霊信仰の重なった面が見える行事があったのじゃないかという期待があるのだ。で、蟹が出てくる。

岡児ヶ水では、ひな壇の前を畳一枚ほどの広さに杉垣で囲い、その中に浜砂を敷き、石や柴などで盆景を作った。これをヒナジョンヤマといい、その砂や杉垣の上などにイセエビ、ウニ、カニなどをはわせ、親類縁者などを招いて宴を開いた。

『山川町史』より引用

同稿の写真のタイトルが「岡児ヶ水のヒナジョユエ(カニはわせ)」となっており、「蟹」が重要なのだとすると、大変い興味深い話ではある。
(※後に見る成川の南方神社さんサイトに確かに岡児ヶ水ではこの行事を「カニはわせ」とよんでいるという記述があった)

奄美諸島や沖縄諸島で、赤子出生七日目の産室からの初外出のときに、赤子の額や身体の上に蟹を這わせる習俗があるが、連なる所があるかもしれない。
いずれ全面的に沖縄から西表島に連なる南西諸島からの文化との関係を常に意識すべき土地であるが、この岡児ヶ水のヒナジョユエの「カニはわせ」もその一画であるといえるだろう。こういう「海の民俗」があるのは見逃せない。

浜児ヶ水の「さんこんめ」と沖得祭

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徳光神社さんから今度は東の海(鹿児島湾出口になる)に来ると、浜児ヶ水(はまちょがみず)という地区になる。この辺り海に向ってなだらかに下っていくというのではなく、相当の標高差で一気に海に落ち込む地形が多いそうで、真水を得るのが難しかったそうな。児ヶ水(ちょがみず・地元では「ちょがみっ」)という地名も柳田翁の頃から注目されているが、概ねこちらの方の稚児ヶ○○に相当する名のようで、「稚児ヶ水」であり、何らかの水場の意味と思われる。このような土地柄における貴重な水場が地名にまでなっていたのだろう。
浜児ヶ水には鎮守のお社というのは現在ないのだが、岡と浜の名の違いの通りにより海の文化の痕跡が見えるところ。この海に「さんこんめ」という大変興味深い正月行事が伝わっている。

▶「サンコンメ・鬼火焚き
 (薩摩 の伝統行事・祭)

「さんこんめ」がいかなる意味の言葉であるのか、三五舞・三合舞・三坤舞・三魂舞・三籠舞・三献舞・散米舞など様々に字があてられるようでもはや不明なのだが、一月七日鬼火焚き(どんど焼き:このあたりは小正月ではない)と併せて行なわれる。
孟宗竹の中に小銭を入れて(数千円入っているらしい)、若衆がこれを肩にくるくる回り、目が回って竹を落として、最後に浜でその竹が割れてとび出す小銭をわーっと拾って縁起をかつぐという行事だ。「竹の中から富」である。
薩摩の棒踊りの系統に孟宗竹の柱を立てるものはあるようだが、近くにまったく同様という行事は今は見ない。かつては指宿の田良・小牧、枕崎や坊津、さらには南島通いの船上などでも行なわれたというので、基本的に海の祭事であり、船の行く先に広くあったものだったようだ。
このくるくる回るというのは船乗り見習いの若衆が船酔いに慣れるためのものなのだ、などというが(十五才になって「ニセ」という漁師の若衆の集団に入る試練であったとも)、そもそも竹が何を意味しているのかやってる人々もわからなくなっているので難しい。しかし、このモチーフは見逃せないのだ。
地元の方も指摘しているが、これは「亀の枕(浮木)」の伝承との関係が慮られる。各地の海で海亀は浮木をもっていて、泳ぎ疲れるとこの木につかまって休むのだ、という話がある。だからこの木を「亀の枕」といい、入手できると大変な漁(富)をもたらすアイテムとなる、と信じられていた。この中で、浮きとするだけでなく亀はそのような木を「背中で回して遊ぶのだ」としている例がある。福島県相馬市の寄木神社には、実際そうした亀の様子を描いた絵馬があったそうな(以下の『漁撈伝承』に写真あり)。

寄木神社に奉納された絵馬には、幣束を立てた寄り木を背負ったカメが描かれている。カメは背中で棒切れを回して戯れることがまれにあり、和歌山県の湯浅町では、これを「カメの回し棒」と呼んでいたという(浜口彰太「亀の浮木」)。

川島秀一『漁撈伝承』法政大学出版局より引用

今の所この「カメの回し棒」が「さんこんめ」で竹を担いでくるくる回る様子と関係あるのかどうか何ともいえないが、船子と亀は関係深いとか、あるいは亀の浮木が竹である話とかが出てくると近づいていくだろう。ぜひとも覚えておきたい行事ではある。
なお「さんこんめ」と似た名の船乗りの行事が沖縄・奄美から来る船にあったといい、これもメモしておこう。

沖縄・奄美の人々は、長い航海の旅を終えて山川港に入る前、開聞岳が見えるころになると「サンコマイ(サンクルーメともいう)」なる行事をしたという。はじめて上鹿する船客を帆柱の上まで三度も持ちあげては落下させる儀式である。明治の初期まで行なわれていたらしい。

『山川町史』より引用

町史でも名の類似から「さんこんめ」との関係があるか、と指摘しているが、どこがどのように関係しているのかはわからない。小銭を入れる孟宗竹が帆柱を表す、などといわれていれば考えようもあるが、もはやそのあたりの意味合いは失われてしまっている。
やはり、漁師たちが伝えていた「意味」が農村化するに連れて失われていっているのだろう。実は、浜児ヶ水にはこれも失伝した祭祀として、海神と人の繋がりをよく示したという「沖得祭」という舞楽があったという。成川の南方神社(昔は諏訪大明神)の末社である「鎮守神社」が近世浜児ヶ水の鎮守としてあり(明治に南方神社に合祀)、ここの神事として行なわれていたようで『三国名勝図会』に十二番までの舞楽と祭式が紹介されているという。
で、八番のタイトルが「豊玉王」なるものであるのも目をひくが、十一番の「蛭児(ひるこ)舞」が重要だ。

白い神主姿の人が釣り糸を垂れると、まず飯がいを釣り上げ、次に杓子、さらにすりこぎ、最後に女人を釣り上げます。驚いてだれかと問えば「底津海津見の姫宮なり」と答えるので喜んで杯の献酬をします。

「町史編さん 28 海神と浦人の交歓」より引用

なのだそうな。歴史時代になってからの外からの影響がなければ、この海の神話は山幸彦のそれとも浦島太郎のそれともまた違った海の姫と人たちの物語だったろうが、それを彷彿とさせるところがある。現状この全容はわからないのでそんな感想くらいだが、こういった神事もあったのだ。

大山:櫻井神社と十五夜の綱引き

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浜児ヶ水から北上して辻之岳という端山のような山の東麓の方へ。このあたりは大山というが、鎮守さんは「櫻井神社」。

▶「櫻井神社
 (鹿児島県神社庁)

櫻井大神という神さまを主祭神としているが、この神格がいかなるものかはよく分からないらしい(故に社号の由来も不詳)。続いて大山津見命・木之花佐久夜姫命と並び祀るあたりが土地の伝となる。ここは、瓊々杵命と木之花佐久夜姫の出会いと別れを語る土地なのだ。

大山の別れ浜
神代の昔、高千穂の宮にいたニニギノミコトは、大隅の古江から舟に乗って無瀬浜に着いた。供には道案内の猿田彦たちを連れ、かめ割り坂を経て別れ浜(ワガハマ)の橋(桜井神社近く)に差し掛かった。この橋の上で、ニニギノミコトは美しい乙女に出会った。ミコトが名前を尋ねると、「私は大山祇神の娘で、木花咲耶姫と申します」と答えた。木花咲耶姫は、気品のある花の精のような乙女であった。ミコトと姫は互いに強く心をひかれ、むつまじい仲になっていった。ミコトは旅を急がなければならなかった。吾田の笠狭宮への大事な使命をもっていた。別れの日、二人は再会を誓い名残りを惜しんだ。

『山川町史』より引用

木花咲耶姫は薩摩の風土記にも同系話を見る、竹の刀で臍の緒を切る話の『日本書紀』の「一書」では、神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)であり、すなわち吾田(薩摩の旧名)の姫であり、南薩の姫であった。

▶「火中出産と竹の刀で臍の緒を切ること
 (古記抜抄『日本書紀』)

出産の話の竹屋は南さつま市加世田になるが(笠狭宮跡もその近く)、広く「われらが南薩の姫」と語られていたということだろう。しかも、この大山櫻井神社の別れ浜の伝は大変重要な話の構造を持っている。すなわち、瓊々杵命は去るのであり、木花咲耶姫が「一夜妻」に近く語られているという点だ。
もともと木花咲耶姫は、このようにマレなる者を迎えて一夜の妻となる巫女的な性質を底に持つのだろうといわれはするが、皇祖神話はそうはなっていない、という問題がある。そこにこの別れ浜のような伝説があると、このような話がもとあったのじゃないか、と思えてくるわけだ。
しかしそうなると地名ともなる大山津見命と娘の木之花佐久夜姫命の土地であり社である、ということで完結しそうなものだが、別に「櫻井大神」とあるのは何だ、という点が大変気になってはくる。ワカランが。ちなみにこのお社は地元では「でしゃどん」と呼ばれるという。この意味もわからない。
大山ではもう一点「十五夜綱引き」のことを紹介しておきたい。といっても名のとおりで、十五夜に大縄を引き合う綱引きが行なわれる、ということだ。これは九州中部から沖縄にかけて大変色濃く行われている行事で、東日本では比較的穏やかな十五夜お月さまだが、南九州では大騒ぎなのであります。

▶「鹿屋市笠之原町の綱引き
 (ブログ「鴨着く島」)

無論山川でも大山に限ったものではなく、周辺広く行われる行事だが、殊に大山地区が盛んであるそうな。で、この綱だが(数十メートルある)、『山川町史』に利永の綱の写真があるが、明らかに蛇である。目口などの造形はないが、片端を尾のように細く作り、反対は頭のように作り、引く前は「蛇がとぐろを巻いて頭をもち上げた形にして」置いておく。これが蛇に見えるのは見てるのがあたしだからではなくて(笑)、この行事を行う全域に共通して「月の満ち欠けと蛇の脱皮による死と再生のモチーフを基本にした雨乞い豊饒・不老長寿の二つの祈りを内容としている。綱引ずりや綱かつぎは竜蛇によるムラの清めや家の清めであり、横引や上げ綱は竜蛇の現出である」と『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)などもはっきり蛇としている。
宮古群島には人に与えられるはずだった脱皮して若返る「スデ水」を蛇にとられてしまった、という話があるが、この綱引きには蛇からそれを取り戻すのだというようなことがあるのかもしれない。

が、ここで比較しておきたいのは常陸の「盆綱」である。霞ヶ浦周辺では、お盆に同じような大綱の蛇を作り、子どもらが引いたり担いだりしながら町内を回る(綱引き、というようなことはない)。そして、「盆綱(盆どの)ござった、仏様まいこんだ」などといって、この大蛇は盆に戻ってくる祖霊たちの乗り物、ないし蛇が祖霊そのものと認識されていた(盆綱の蛇は「らんとう(墓場)」からやってくる)。
常陸の盆綱も九州の綱引きの東伝だろうと見る向きもあるが、九州ではあまり祖霊がどうこうという感じではない。一方常陸では綱引き(引き合い)ということはしない。いずれ町内を引いて回っている所など見ると同じにしか見えないのだが、微妙に違う所が面白い。
ちなみに九州でも佐賀の方に行くと、盆に綱引きが行なわれる。

▶「唐津市:海中盆綱引き
 (九州旅ネット)

このあたりを通して連絡していくか否かは、色々な所に出る「藁綱の蛇」を考える上での大きな筋となるだろう。

利永神社・はまおり

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大山地区から西へ進むと利永という地区になる。「利永神社」が鎮守となる。「ついどん」と呼ばれるが、鎮守を「つい」という(「鎮守方」で「ついのかた」という)。

▶「利永神社
 (鹿児島県神社庁)

「めんどん」といって、お面をかぶった人々が神輿を担いで練り歩く祭が小正月にあるが、これは伊勢講の祭が利永神社から出発する、ということで利永神社そのものの神事というのではないそうな。

▶「メンドン“奇襲”すす塗り健康祈願
 (47NEWS)

「へぐろ」といって釜の炭(墨)を顔に塗って魔除けとする次第があり、これは浜児ヶ水の「さんこんめ」でも行なわれるが、あるいはその辺りの方が重要なのかもしれない。
また、「めんどん」というと南西諸島からのあのものすごい神さまのようで、実際その流れではあるだろうが、利永の面は特にユニークという感じではなくヒョットコなどで良いようだ。

▶「甑島のトシドン
 (薩摩川内観光・物産ガイド「こころ」)

神社さん自体は特に創建がどうこうという社ではなく、大まかに大国主命・保食命を御祭神としている。しかし、「ついどん」は鎮守の意でここ以外にも複数あったようなのだが、ここはここで独自の「ついどん」の伝説を持ってもいる。ここもまた、海から寄り来る神の社なのだ。御神体はくり舟であるという。

利永神社の舟
昔々、男が一人、小さな舟に乗って南の海からやって来た。男は岡児ヶ水に上陸し、その辺りでしばらく過ごした。今、岡児ヶ水ではその辺りをツイドン山と呼んでいる。ツイドン山でしばらく過ごしたあと、男は利永に移り住み、一生を過ごした。男が亡くなったあと、利永の人々は改めて男のありがたさを思い知らされた。男は利永の人々に、いろいろと役立つ新しい知識を教えてくれたのだった。村人たちは男の死を悼んだ。そこで、たった一人で舟に乗り、南の海からやって来た男の霊をまつるために、長さ六〇センチ余りのくり舟を作り、利永のツイドンに奉納した。利永のツイドンは、今の利永神社である。

『山川町史』より引用

しばらく住んだ岡児ヶ水の山をツイドン山といったというのだから、「ついどん」にはそもそもこのような来訪神の意味合いがあるのだと思われる。利永は海からは大分内に入っているが、琉球人傘踊りが行なわれたりと、南西諸島から来た何か、というものをよく示す土地である。
先の「めんどん」も、伊勢講の一環であるとはいうが、こういった土地柄の内でもあるだろう。そして、このことは利永の葬儀に関して要注目なのだ。利永には「はまおり」があるのである。

利永などでは、墓地での埋葬(今は納骨)が終わったあと、近親者数人が川尻などの海岸で浜下イ(はまくだい・浜下り)をする。手足を海水に浸し、沖に向かってぬれ手を叩く。死者は、舟に乗って海の向こうのあの世へ旅立つのだという。

『山川町史』より引用

奄美大島・検村久志では、出棺の時、「美しい島をさがしていらっしゃい」と唱え、葬式後「しおばれ(塩払い)」といって海岸に出て海水に足を浸して潮水を舐めるというようなことをするが(第一法規『日本の民俗46 鹿児島』:はまおり的な名で呼ぶのかは不明)、まず同様するものだろう。
うちの方では静岡県沼津市から駿東郡・黄瀬川沿いに見られる、葬儀と供養に関する「はまおり」を取り上げているが、南九州・南西諸島にも葬儀に関する「はまおり」はあるのであります(南西諸島の「はまおり」の多くは、葬儀ではなく三月三日の年中行事となる)。

▶「静岡県沼津市のはまおり

いずれにしても「はまおり」が送り出す人の禊ぎ・忌中ばらいであるのか、海上に霊を送り出しているのか、というのははっきりしないところもあるのだが、ここでは「死者は、舟に乗って海の向こうのあの世へ旅立つのだという」と明確にいっている。これは伊豆駿河のことを考える上でも重要だろう。

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予祝編:薩摩:山川 2013.07.25

惰竜抄: