沼津行
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.10.27
咳気婆さん
朝、というよりまだ早朝の雰囲気の中沼津へ。今回最初は珍しくお寺さんなのであります。沼津駅のすぐ東側の「蓮光寺」。 | |
といっても目的はお寺そのものではありませんで、この山門前にある石造物群。ここに「咳気(がいき)婆さん」の像があるというのだ。 「多摩行:町田」にあった「こうせん婆さん」のような伝承は広く「しわぶき婆さん」などといって流布しているものだ、と言ったが、ここ沼津ではその系統が「がいき婆さん・ぎゃーき婆さん」などとなっている。 ▶「多摩行:町田」 『沼津市史 資料編 民俗』によると、「高さ八〇センチメートルほどの浮き彫りの坐像であるが、風化のためにその人物のすがたはあきらかではない」とあるが、該当しそうなのは後列一番手前の像だろうか。傾き具合からして如意輪観音さんのようにも見えるがね。 |
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お隣の小さなこちらだったってことはないのかしら。こりゃ伊豆型道祖神さんかな。
像の方は今ひとつピンと来なかったのだけれど、話は面白いことになっている。「がいきのおばあさん」と呼ばれて名は明らかに「咳」なのだけれど、ここの像はいつの間にか泥棒除けの神様に変化してしまったそうな。 盗難にあったら「がいきのおばあさん」を縄でぐるぐる巻きにして、犯人が捕まると、ただちに縄をほどき、お団子などをあげたという。 この御利益の「強勢執行モード(笑)」は庚申さんといわず道祖神さんといわず村里の石造物には良く見られる方法だが、信仰の有り様の一つとしてよくよく頭に入れておかないといけないものだ。神霊との付き合い方というのもおそれ畏まるだけでもない。ポカスカ叩いたり、竜神の池をかき混ぜて怒らせたり、滝壺に大石投げ込んで罵詈雑言の限りを浴びせて飛んで逃げる、なんてこともやっていたのだ。遠い神もいれば、近い神もいる。 |
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日枝神社
白砂運び
玉作神社
道行き
八幡神社(市場町)
朝日稲荷神社
浅間・丸子神社
渡ったあとは「浅間・丸子神社」へ。丸子(まるこ)神社は駿河國式内:丸子神社であります(他に論社はない)。もっとも、もともとここに鎮座されていたのは浅間さん。天保二年に丸子神社が火事に焼け落ち、以降ここで一緒に祀られることになった。その元地は(今回あたしは行かないが)西に一キロほどだそうで、御旅所という扱いになっているそうな。
▶「浅間神社 丸子神社」 (webサイト「玄松子の記憶」) |
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丸子神社は旧県社。浅間神社も坂上田村麻呂にちなむ創建と伝わる古社で旧郷社。先の旧県社・日枝神社から直線距離一キロちょっとにまた県社という、ちょっとすごいことになっている所。 | |
桜花紋は浅間さん。写真右の紋が丸子神社の紋。「月に稲穂」だそうな。これは他に類例があるのだろうか。記憶にない。丸子……玉……月……むぅ。紋に勾玉が隠れているような気も。 | |
しかし丸子神社が古くどのようであったかはよく分からない。御祭神は金山彦命一柱を祀る。「又社記ニ、崇神天皇ノ御宇、国造ニ詔シテ丸子神社ヲ此地(中略)ニ鎮奉シ給ヒ」云々と『神社明細帳』にあるとあり、大岡(推定)国衙とも大きく関わるのかもしれない。 丸子神社旧社地は、勾玉の石製模造品などの出土のあった祭祀遺跡であり、まだその内容までは調べていないが、南豆の祭祀遺跡との類似・差異がどのようであるのかもとくと考えていかねばならない。 ま、現状国造時代のスルガのことなんざ何ひとつ分かっちゃあいねえ(あたしが)ので、今回はとりあえず「あー、もうここはスルガだったんやね」と実感しているだけでありますが(笑)。 |
川邊神社
新玉稲荷神社
蛇松
駿東郡清水村黄瀬川に若い修業者が住んで居た。或時みめ美しい一人の娘が尋ねて来た。そしてついに夫婦約束をした。がこの娘が或日のこと蛇になって仕舞った。そして港町の方に逃げて来た。若い修業者は余りのことに転倒して、発狂して自殺してしまった。その蛇は沼津狩野川口で死んだ。その跡に大蛇の這った様にまがりくねった松が地面に生えてゐる。(『静岡県伝説昔話集』)
またこうとも言う。 |
沼津市狩野川の西岸の河口の松林中に蛇松がある。昔二人の相愛の者があって、其の女の方が殺されたが、其形がすぐ蛇の如き松となりうねって居た。それを一寸でも傷付けると血が流れ出たと云ふ事であったが、それが最近に至り、松やにである事が判った。
楊原神社
そしてまた狩野川を渡る。ふっじっさーん!とやる予定だったのだけれど天気明朗なれども富士山は雲掛かり、残念(ちなみに狩野川最下流部はこのラインのみ富士山−狩野川と並ぶ)。 | |
そこから東へズズイと進みますと広域には香貫(かぬき)という土地となり、名神大社にして伊豆國田方郡式内:楊原神社の最有力論社である「楊原神社」が鎮座される。楊原は「やなぎはら」ですな。問題は以降述べるが、額面通りとするなら田方郡唯一の名神大社であります。もとは東南東方一キロほどのその名も楊原という土地に鎮座されていたが、後北条と武田の戦火に巻き込まれて灰燼と帰し、現社地に遷られた。伊豆國三宮格でもある……のだけれど。 中古近古は大宮明神・香貫大明神などと呼ばれており、式内:楊原神社であるという伝が連綿として来たわけではない。今「名神大社の楊原神社にお参りしたい」といったらここに来ることになるのではあるが、そもそもここは伊豆國だったのかという所に遡って実態はよく分からない。 |
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吉田東伍は玉作神社から香貫一帯を駿河國玉造郷に比定し、楊原神社(及びこの次の大朝神社)を伊豆國の式内社とするのはあたらないと見解している。しかし、一方の論社である三島大社摂社の楊原神社は総社に集められた社と思われ、そうなると伊豆國式内:楊原神社は宙に浮いてしまう事になる。難しいのですな。
三島大社問題に関しては次の最後段の補遺参照 ▶「田方行:長岡・田京」 |
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ま、その辺急に解が出ようはずもないので周辺の事を。本社殿お隣に吉田神社が構えられているが、ここも安政のコレラの猛威に際して勧請されたお社。幕末の色々な脅威の連打に際して、駿河東部では唯一神道の吉田神社が繰り返し勧請された。 | |
境内の隅には「○○家」とある御屋敷神のような祠も。そうそうたる官社というより土地の鎮守さんの色合いが濃い。 | |
婆ちゃんが銀杏拾いに夢中だったりと、のどかな神社さんですな。んが、伊豆には伊豆山の修験者が行なう伊豆半島一周の行があるのだが、この地香貫の楊原神社・大朝神社・玉作神社への納札をもって終了とする習わしだった。 | |
だから伊豆山はこの地を「帯解け」という。これも千年続いたと言われる行であり(伊豆峯次第)、そうしてみると伊豆だった、とは言える。また、細かな境内社の事が分からないのだが、こちらとかもしかしたらキノミヤさんかもしれない(後述)。 |
大朝神社
牛臥山公園
はまおり
静岡県沼津市では、四十九日を過ぎてから新佛の位牌を濱の波打際に持って行き、砂石を積んだ上に据えて菓子などを供え、親族一同濱邊に敷物を敷いて酒肴をともにし、精進落ちをして歸る。位牌を濱に置いて歸るので濱置きというのであろうといっているが、オキは祭の意味ではあるまいか。
ということなのだ。しかし、市史の方では「置く」という感覚は薄く、位牌を海に投げ込み、戻ってこないように上手く遠くに投げられることが求められた、という感じが強い。内地の方では川に下りてやはり位牌を「流す」のであり、置くより流すが本来のように思える。 完全に駿河の方である原・片浜から沼津港周辺、逆に完全に伊豆の方である西浦の方まで同様に行なわれているようで、どちらからの民俗であったのかは今の所よく分からない。んが、これは常陸の方から伊豆半島までに連なる神輿が海に入る浜降りの神事とも無関係ではあるまい。というよりも浜降りの意味が何であったのかを端的に伝えてしまっている葬礼の次第だと言える。 まったくたまげた話だ。いや知らなかったのですよ、あたくしは。沼津なんて近いといえば近いのに。まさに看脚下、である。 三枚橋の方では昔は海まで行っていたが、今は狩野川に流す、とあり、このあたり同三枚橋の日枝神社さんの例大祭の渡御が海から川までになってしまった次第を連想させる。ともあれ、沼津のあらゆる海に関する信仰の根元にこの「はまおり」の葬礼感覚がくるのに違いない。沼津の海は、そこが帰ってゆく所であることを今に伝える海であったのだ。 |
道行き
吾妻神社
で、あたくしは獅子浜という所の吾妻神社を目指して丘を登ってきたのだけれど……封鎖されとる?この上のはずなんだがガガ…… | |
ナーンたるこっちゃと思っておったら、すぐ下に何やらお社らしきものが。ピカピカだが……こっちなのかしら(?o?) 結論からいうと、ここが獅子浜の「吾妻神社」さんで良かったのであります。ほんの三年くらい前に先の登った上の社地が崖崩れで倒壊してしまい、下ったこちらに再建されたのだという。 |
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それでも海を見守る造りに違いはなかった。そう、ここは今回の行程でも重要な所で、西相模から東伊豆の海に点在する吾妻神社群と同様のお社なのではないか、ということを確認しにきたのだ。間違いあるまい。この吾妻神社群は海を見下ろす丘上・中腹に構えられ、海からの山アテなどの指標となっている傾向がある。最も代表的なのは西相模二宮町の「吾妻神社」で、一般にここが西限とされるが、実は東伊豆の海にも波及しており、稲取の「吾妻権現神社」などが典型的である。
▶「吾妻神社(神奈川県中郡二宮町) ▶「吾妻権現神社(静岡県賀茂郡東伊豆町) |
伊勢神明宮
下ってきましたところに「伊勢神明宮」が鎮座される。誰か居たら吾妻さんのことを訊ねようとか思いつつ(で、見事に土地の爺ちゃんがいて、先の吾妻さんのことが分かったのでした)。 | |
ここは詳しくは分からないが、ここでこの海の「神明社」のことも指摘しておこう。実はこのあたりは浦ごとに神明さんを祀っており、これは特徴と言えると思う。何となれば東〜南伊豆には神明神社はほとんどないからだ(熱海下多賀くらい)。 この特徴に鑑みて思うのは、我入道の大朝神社のことだ。現在の大朝神社の御祭神は大日孁貴神であり、白水『日本の神々』などでは、これを社名からだろうとしているのだが、あたしは「浦ごとに神明社を祀る」というこちらの傾向の延長ではないかと思う。最後の方に参る長浜の式内:長濱神社も、土地では神明さんだった。沼津のこの浦々の神明さんを祀る、という傾向は周辺神社の考察へ織り込んでおかないといけない。 |
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本社殿の傍には小さな祠群がわらわらと。あたしは伊豆の海では船一艘(船霊一柱)に対して対応する「浜宮」がそれぞれ浜に連なっていたのじゃないかと見ているが、それらの末かもしれない。 | |
燈籠には深々と椀状穿痕が(基部)。先ほどの爺ちゃん曰く、「昔は子どもらがそのくぼみで〝トリモチ〟搗いていたもんだなぁ。あんた、トリモチ知っとる?」ということであります。おー、なるほど。トリモチか。 | |
吾妻神社と伊勢神明宮に関して「山アテ」の線から補足しておこう。写真左の少し登った所に吾妻さんが見えている。その後背にこうしたピークがあり、さらに写真右方には鷲頭山が聳えている。 | |
地図を見ると添付図のよう(上矢印が吾妻・神明、下が次の白髭)。明らかに海上の位置を特定する「山アテ」の指標であると言えるだろう(山アテに関しては吾妻神社群とも関係して以下「龍神社」の稿参照)。
▶「龍神社(静岡県伊東市)」 |
ナンドのケッケ
ところでここ獅子浜だが、以前ちょろっと紹介したレアな怪異譚が伝わった所でもある。産の怪異「ケッケ」だ。他に機会がなさそうなので、ここで詳しく紹介しておこう。 |
ナンドのケッケ:
出産はナンドでおこなった。出産するとナンドで三三日間寝起きした。ナンドの入り口は、敷居が少し高くなっていた。これは、昔、獅子浜でケッケという鳥を産んだ産婦がおり、その鳥は産まれるとすぐにナンドから逃げ出して、カッテのヘッツイの裏にかくれて鳴きだし、その声がケッケと聞えたことから、その名前がついたという。それから敷居を一段高くしたのだという。(『沼津静浦の民俗』)
相模足柄上郡や武蔵浦和の「ケッカイ」の怪の話の流入だと思うが、音から鳥になってしまったのですかね。何にしてもレアな怪の話ではあるだろう。 |
白髭神社(獅子浜)
住吉神社(江浦)
この江浦には「住吉神社」が鎮座される。こちらも委細不明だったのでスキップする予定……だった。 | |
んが、なんか御社殿の前に案内があるよ?ということでお邪魔することに。これがびっくりで県指定無形民俗文化財の「江浦の水祝儀」という神事があるそうな。県指定なんだから事前に知っとけよという話もあるが、まぁ(笑)。 |
前年までに結婚した花婿を祝福する「水祝儀」の儀式を産土神住吉神社で行なっている。正月二日の晩に、社殿での神事の後、青年会館において関係者参列のもとに、青年と花婿・添婿との間に前後二度のレイシュ(礼酒・冷酒)と呼ばれる坏事がある。坏事の間に音頭取りの祝い歌に併せて女装の青年が境内で手踊りし(祭礼歌舞)、花婿・添婿に水を掛けて祝う儀礼によりハイライトを迎える。
これがですね、どうにも熱海下多賀の「下多賀神社」の「水浴びせ式」に似てますな、という。下多賀は非常に古い神事を伝えているということで文化財となっている。江浦は近世からとあるが、どうなんかね。
▶「水浴びせ式」(熱海市観光協会) 下多賀の「水浴びせ式」は重要な民俗として白水『日本の神々』をはじめ良く紹介されているが、この沼津江浦の「水祝儀」への比しての言及は見たことがない。これが関係ないってことはないだろうし、良く覚えておかんといけない。 |
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また、境内社さんの事も。写真向って左は「第六天社」だった。このあたり急峻に下って海、なので農地も蜂の頭もなく、漁師文化圏なのだけれど(今は観光もだが)、こちらも川邊神社で端緒がついた「海の第六天」に相違ない。 | |
各社に皆馬の札が。どこからだろうかね、内浦の方には駒形さんもあるようだが……どういった関係かしら。 | |
道行き
多比神社
金櫻神社
多比を過ぎると狩野川放水路の出口になる。夏にこの向こうから「この向こうは沼津の海だ」とやっとったわけですな。
▶「田方行:長岡・田京」 |
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ここを口野といい、伊豆の入り口だからそういうそうな。このあたり近代まで駿河駿東郡だったのですな。もっともやはり山が海に落ち込むような獅子浜の方からもう「伊豆」以外の何ものでもない感じだったが。 | |
その口野に「金櫻神社」が鎮座される。脇の大通りはもう歩道もなく、この鳥居後から延々登る。他に道はない。普段お参りするような神社ではないのは瞭然だ。 | |
金櫻神社は甲斐のそれで、本家は日本武尊を祀るというわけではないのだが、まぁ、日本武尊由来のお社ということで、こちら口野の金櫻神社は日本武尊を祀る。 | |
社殿後背にまた鳥居があり、山上に道が続いているが、昔はもっと上に神社があった。そのピークがどこか分からないが「金櫻山」なのだそうな。今でも結構登った所だが、さらにピークだったというのも重要だ。 | |
境内にはそのかつての登り道にあったのであろう道標が。さて、獅子浜の吾妻神社、多比の御嶽神社、口野の金櫻神社と三社にわたって日本武尊系のお社があったわけだが、多比がどうあったか分からないが、口野と獅子浜は明らかに似ている。 | |
ここ金櫻神社も先述の吾妻神社群同様の理で造営されたお社に見える。日常的にお社に参るための造営はなされておらず、これは海から遥拝するための社であろう。もとは皆吾妻社であったのではないか。日本武尊そのものを海の民がどうこうするというのはピンと来ない。船の航路を示す神は海に還った存在でなければならないはずだ。あたしは吾妻社の並びに日本武尊がオーバーラップしたのだと思う。
また、先の「田方行:長岡・田京」中盤の戸沢集落の劔刀神社(式内:劔刀乎夜爾命神社)が日本武尊の伝を持っていたことも思い出されたい。金櫻神社後背の山を越えたら戸沢なのだ。 ▶「戸沢:劔刀神社」(Googleマップ) 口野から淡島の方は沼津というよりも長岡と結びつきが強く、人の行き来はそちらにあった。今でもバスが多く往復しているのは長岡の方である。戸沢劔刀神社の日本武尊の伝は、このあたりに関係しているのではないかと思う。 |
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いずれにしても今回の収穫は、西相模からの吾妻神社群同様の理で造営される社が西伊豆にもあるのがはっきりしたということだ。これが伊豆半島をまわってきたものか、内地を横切ったものかはまだ分からないが、「西限」の意味は大きく変わってくるだろう。また、相模湾からすら外れる事により、その根本が弟橘媛の神話「ではない」ことも一層はっきりしてくると思う。 |
淡島
長濱神社
さらに南下すると内浦長浜となり、歩きだと17号線のトンネル手前、シーパラダイス脇から抜ける道を行くと写真のような所に出る(左奧から来たことになる)。この右の坂を登る(案内などは何もない)。 | |
ここに伊豆國式内:長濱神社である「長濱神社」が鎮座される(他に論社はない)。だがしかし、法人社でないので神社庁の方を見てもないので注意。 さて、ここ長濱神社については「長濱御前」を祀る社なのかどうかがキモにくる。長濱御前とは伊豆諸島神津島に祀られる伊豆三嶋大神の后神・阿波命。古い記録では「正后」であったとされる。このあたり詳しくは以下参照。 ▶「月間神社(静岡県賀茂郡南伊豆町)」 |
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神津島の阿波命神社は神津島の「長浜」に鎮座され、こちら沼津長浜がその分祠であるか否かと議論が分かれる所なのですな。『増訂 豆州志稿』がこの論を打ち出したという観だが、『式内社調査報告』などは疑問だとしている。 | |
ま、そのあたりは追々。もし阿波命が祀られていたなら、伊豆三嶋信仰最恐の后神の社だということになるわけだが……わはははは、狛犬さんは何ともとぼけた風情でありまして。昭和狛で新しいんだけどね。
そもそも長濱神社も近世は神明社でありまして、長浜の地名より式内:長濱神社に比定されて社名・祭神を改めて(現在は阿波命を祀る)、ということであってこれまたその伝が連綿としてきたというわけでもない。検討すべきことはまだ山とあるのだ。 |
白髭神社(長浜)
お次はその検討すべきことの第一であります同内浦長浜の「白髭神社」さんであります。長浜の鎮守というのはこちらであった。 | |
近代の神社整理期には長濱神社さんも一時こちらに合祀された。んが、途端に疫病蔓延で人死にも出たことから復祀されたのだ。合祀と復祀の怪異譚のある所でもあるのであります。 | |
そして、古墳時代などの古い時代の祭祀場はここであったかもしれないと考えられている。現社地を整備する際、ここ(白髭神社遺跡)からは「子持勾玉」を筆頭に祭祀遺物の数々が出土しているのだ(全貌は調査されていない)。
▶「子持勾玉」(滋賀県高月南遺跡) (webサイト「滋賀県文化財学習シート」) 出土した子持勾玉にネットで近いものとなると……上サイトの子持勾玉の写真に、さらに線刻があるような感じだ。『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』にはカラー写真があります。 さらに興味深いのは、このお社の社伝である(白髭神社の社伝というか土地の伝承だが)。 |
麻の坂:
内浦地区長浜の長浜神社のあたりは麻ノ坂とよばれている。ここは、麻が多く作られていたので麻ノ坂と呼ばれるようになった。あるとき、白髪の老人があらわれ、「麻の坂に麻蒔き初めてうみ初めて磯にへさせて浪に織らせん」と歌をよんだという。(『沼津市誌』下巻)
歌は俚謡としてうたい継がれたものだ。この老人が白髭神社の神であることは間違いなく、長濱神社との繋がりの深さが伺える。長濱神社さんへの坂途中には「麻ノ坂此上」という石柱もあった。 | |
さらに、『増訂 豆州志稿』によると、「其海岸ヲ麻溪ト稱ス」ともあり、海の名まで「麻」だったようだ。これは阿波命と関係して重要なことだ。端折るが、ここから大仁〜修善寺に掛けて麻の話が良くあり、式内:大朝神社の比定とも関係する。
しかし、これらが一体どのようなストーリーの上に並んでいたのかというのはよく分からない。『式内社調査報告』は「長浜」の地名は地勢の特徴からついた名であり、長濱御前とは関係なかろうというのだが、長浜の名にふさわしい浜があるのかというと無い。 シーパラダイスの沼津側あたりに少し砂浜があるが、シーパラ絡みでそうしたのじゃないか。今となっては海際まで建物が並んでしまっているので何とも言えないが。また、淡島を遥拝する祭祀空間があったのだろうともいうが、これも実は微妙な点がある。 |
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周辺各社で淡島をはっきり捉えている社がないのだ。矢印は皆正面方向。先に見たように倒壊・再建をくり返してきただろう地なので、本来の方向ではなくなっている可能性はあるが、わりと執拗に「向き」が意味を持つ伊豆のことと思うと微妙である。 特筆すべきは長濱神社が式内:鮑玉白珠比咩命神社の最有力論社である鮑玉白珠比咩命神社(赤碕明神・木負神社)の方を向いていることだが、現状その意味は分からない。鮑玉白珠比咩命神社鎮座地地名の木負は子負の転訛と考えられ、伝承などを見ても子安の女神といえるところ。 補遺で扱うが、函南町の肥田神社には沼津・長濱神社から勧請された后神が子安の女神として祀られていた、という流れがあり、このあたりに何かがああるかもしれない。 ▶「田方行・函南」 そんなこんなでなんとしてでも淡島の天辺に鎮座される淡島神社さんから「どう見えるのか」が実見したいのだけれどねぇ……という内浦の海なのでありました。ふごふご……と思いつつ、白髭さんから三津(みと)へと戻りまして。 |
氣多神社
おわり
とまぁ、そんなところで。沼津駅発の神社巡りもここで幕なのでありました。良く歩いたこっちゃ。シーパラから長岡のバスでかつての戸沢入り口あたりの感じを追想……とか思っていたのだけれど、バスが走り出すなり爆睡してしまって記憶にない(笑)。 ともかくこの行程の中に、これから追うべき課題がてんこ盛りに提示されたというのは間違いあるまい。玉作のこと、楊原・大朝両社のこと、吾妻社のこと、長浜のこと、とどれをとっても一級品の顔ぶれだ。ここから南の西伊豆は交通の便も良くなく、辿るに難儀な土地ではあるが、入り口において既にその甲斐があると確信できた一日であったといえましょう。歩けよ、さらば現われん。 |
沼津行 2012.10.27