沼津行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.10.27

沼津行の模様を。いつもとタイトルが違いますな。駿河でもあり伊豆でもあり、郡名行と言おうにもそうもいかぬ複雑な様相がありということで「沼津行」としか言いようのないエリアなのであります。現在は沼津全域を伊豆地域の区分とする場合もあるけれど、近代は静浦の方まで駿河駿東郡だった。これが古代ともなるとどういった境界感覚があったのかも胡乱で、まことに線引きのし難い土地。これはレポはじまって序盤の神社を巡る過程でよく分かることになる。
逆に言ったら駿河からの文化と伊豆の文化の重なる土地であり、これまでまわってきた伊豆の土地の文化が客観視される所ともなる。また、極めて独特な海への信仰・文化が今に残る所でもあり、併せて見ていこう。そんな沼津行。おそらくレポはこれまでの最長クラスとなります。

咳気婆さん

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朝、というよりまだ早朝の雰囲気の中沼津へ。今回最初は珍しくお寺さんなのであります。沼津駅のすぐ東側の「蓮光寺」。
といっても目的はお寺そのものではありませんで、この山門前にある石造物群。ここに「咳気(がいき)婆さん」の像があるというのだ。
「多摩行:町田」にあった「こうせん婆さん」のような伝承は広く「しわぶき婆さん」などといって流布しているものだ、と言ったが、ここ沼津ではその系統が「がいき婆さん・ぎゃーき婆さん」などとなっている。

「多摩行:町田」

『沼津市史 資料編 民俗』によると、「高さ八〇センチメートルほどの浮き彫りの坐像であるが、風化のためにその人物のすがたはあきらかではない」とあるが、該当しそうなのは後列一番手前の像だろうか。傾き具合からして如意輪観音さんのようにも見えるがね。
お隣の小さなこちらだったってことはないのかしら。こりゃ伊豆型道祖神さんかな。

像の方は今ひとつピンと来なかったのだけれど、話は面白いことになっている。「がいきのおばあさん」と呼ばれて名は明らかに「咳」なのだけれど、ここの像はいつの間にか泥棒除けの神様に変化してしまったそうな。
盗難にあったら「がいきのおばあさん」を縄でぐるぐる巻きにして、犯人が捕まると、ただちに縄をほどき、お団子などをあげたという。
この御利益の「強勢執行モード(笑)」は庚申さんといわず道祖神さんといわず村里の石造物には良く見られる方法だが、信仰の有り様の一つとしてよくよく頭に入れておかないといけないものだ。神霊との付き合い方というのもおそれ畏まるだけでもない。ポカスカ叩いたり、竜神の池をかき混ぜて怒らせたり、滝壺に大石投げ込んで罵詈雑言の限りを浴びせて飛んで逃げる、なんてこともやっていたのだ。遠い神もいれば、近い神もいる。

日枝神社

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さらに東へ行くと「日枝神社」が鎮座される。道行きの看板も「山王さんはこちら」という風で、山王さんと親しまれているのだろう。ここはかなり重要なお社(旧県社)。律令制以前の駿河はまた珠流河國などとも書かれるが、概ねこのあたりに中心があったと考えられている。ここは三枚橋という所だが、北東側に広がる大岡という地域が国衙の場所に想定され、駿河の初期国府もそうだったと想定されている(比定される遺跡はない)。
この地は下って大岡荘という荘園となり、藤原師通公の領土であったとされ(確証はない)、その母が師通の死を悼んで勧請したのがこの山王社であったと社伝にいう。長岡の日枝神社と似たような話だ。きっと「京(都)の守護の比叡」という所にスポットした山王社のあり方というのがあるのだろう。いずれにしても、沼津はスルガの発端の地であったということだ。
話は変わって、境内社の「高尾穂見神社」さん。あたくし小山行で勘違いしておりましたが、これは甲斐の高尾穂見神社からの勧請であります。静岡市の龍爪様である積穂神社と間違って見てしまっていた。
神社規模では沼津中心部の総鎮守格なのだと思われ、お守りも、これでもかと(笑)。お杓文字もありますな。それが伝統である所でなくても「ある」というのはお杓文字のイメージが生きている、ということでもある。
社地のぐるりはこのような盛土に囲まれていた。伊豆の方ではこういうのは見ないね。まぁ、伊豆のお社は斜面に多いというのもあるが。
参道脇に。「三枚橋」の地名は昔東海道に石板三枚の石橋が架かっていたからだというが……その石橋はかつて日枝神社にあって、今はどこかに移動したと聞いていたが……これ違うのかね。

白砂運び

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南へ。狩野川を渡る。このあたりにくると大きい川になってますなぁ。終日良い天気。

日枝神社さんのもう一つの側面について。ここの九月二十三・四日の例大祭は大変に興味深い。「当殿」という少年と「御前女」という少女による「白砂運び」の儀があり、かつては千本松原の海まで渡御して「かわるがわる二一個の石を拾いあげては、袋の中にこれを入れて帰っていた」という。今は狩野川の堤に出るだけのようだが、これは明らかに海の信仰であると言えよう(以上より詳しくは『沼津市史 資料編 民俗』参照)。山王さん、「日枝神社」というと海の信仰を伝えていると思いつかないが、こういうこともある。

玉作神社

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渡ってすぐに「玉作神社」さんが鎮座される。伊豆國式内:玉作水神社の最有力論社にして、『和名抄』に見る玉造郷の有力比定地。ここで「あれ?」となるのはかなりの静岡通(笑)。
小さなお社だが、大正時代に付近を整備した際の遺物がすごかった。大量の玉石が出土し、内六個は今も神社で管理されているそうな。実に、古代玉造の記憶を今に伝える神社なのであります。
んが、玉造部がいたのだ、というのは良いとして、伊豆國式内:玉作水神社であるならば伊豆國であるはずだが、『和名抄』に見る玉造郷というのはこれは駿河の話なのだ。早くも伊豆なんだか駿河なんだかという所が混線しはじめるのであります。
社名も「玉作神社」として神社庁は表記しているが、標石などは「玉造神社」になっておったりと、一挙両得という所なんかね?この後「この海の祭祀者」問題が最後まで尾をひくことになるが、ここは頭をひねらねばイカン所になるだろう。

道行き

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行く道に道祖神さん。伊豆型道祖神さんですな。写真左側はもう座像なのかどうかも分からんことになってはいるが。子どもらにポカスカやられてきたが故であって、その点道祖神さんに相違あるまい。
また行く道にかわいい自転車立てが。これ欲しいな(笑)。
さらに行く道に「へび救」とな。薬局か?へびは蛇なのか。物凄くもしかしたらだが、これ、いずれスペアをとるかもしれん。

八幡神社(市場町)

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道行きは西に転じておりまして、御成橋のたもと、市場町の「八幡神社」さん。ここはスキップ予定だった……のだけれども。
鳥居脇の道祖神さんが「寄ってけ」と言うのだものしかたがねい(笑)。今回道筋の神社全ては巡れないコースなんだけどねぇ。事前に由緒などワカランかった所はまたの機会に、というはずだったのだけれど(全般的にはそう)。
境内に由緒書きがあったが、やはり「由緒及び創立は詳らかでない」ということであります。市場町の名のとおり市が立った所だろうと思うが。
んが、「せえのかみさんの言う通り」ということで面白いものも。これは力石でしょうな。ここも東海道文化と港文化の地故、そりゃ力石もたくさんあったろうという土地だ。こんな風に立てたりもするのだね。
絵馬も一工夫。丸絵馬だ。あまり見ないが、良い感じではある。
そして何よりも鳥居くぐってすぐ脇のこの祠。「乙女の神」とある。まったく委細不明。何の女神様であるのか。
ちょいと失礼しまして。これは、あたしが思い描く「伊豆型道祖神さんの完全版」に極めて近い。恋愛成就、とか標石にあったが、どうなんだ。弟橘媛とかだったりするのか。

朝日稲荷神社

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御成橋を渡る。沼津に御用邸があった頃、天皇陛下が渡る橋だったので御成橋という。すると近代的なビル群の谷間に朱の社が。東京なんかじゃ良くある光景ではあるが、沼津でこうまでして残すというところが興味深い。

「朝日稲荷神社」さんですな。三枚橋に武田氏の三枚橋城があった。江戸時代になって水野氏の沼津城ができ、三枚橋城の守護であったという稲荷が外に出された。それがこの朝日稲荷さんであるそうな。
まったくこのあたりは小社をまとめた記録がなく難儀なのだけれど、所々こうして由緒の案内があるので助かる。これをまとめるだけでも価値あるだろう。

浅間・丸子神社

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渡ったあとは「浅間・丸子神社」へ。丸子(まるこ)神社は駿河國式内:丸子神社であります(他に論社はない)。もっとも、もともとここに鎮座されていたのは浅間さん。天保二年に丸子神社が火事に焼け落ち、以降ここで一緒に祀られることになった。その元地は(今回あたしは行かないが)西に一キロほどだそうで、御旅所という扱いになっているそうな。

「浅間神社 丸子神社」
 (webサイト「玄松子の記憶」)
丸子神社は旧県社。浅間神社も坂上田村麻呂にちなむ創建と伝わる古社で旧郷社。先の旧県社・日枝神社から直線距離一キロちょっとにまた県社という、ちょっとすごいことになっている所。
桜花紋は浅間さん。写真右の紋が丸子神社の紋。「月に稲穂」だそうな。これは他に類例があるのだろうか。記憶にない。丸子……玉……月……むぅ。紋に勾玉が隠れているような気も。
しかし丸子神社が古くどのようであったかはよく分からない。御祭神は金山彦命一柱を祀る。「又社記ニ、崇神天皇ノ御宇、国造ニ詔シテ丸子神社ヲ此地(中略)ニ鎮奉シ給ヒ」云々と『神社明細帳』にあるとあり、大岡(推定)国衙とも大きく関わるのかもしれない。
丸子神社旧社地は、勾玉の石製模造品などの出土のあった祭祀遺跡であり、まだその内容までは調べていないが、南豆の祭祀遺跡との類似・差異がどのようであるのかもとくと考えていかねばならない。
ま、現状国造時代のスルガのことなんざ何ひとつ分かっちゃあいねえ(あたしが)ので、今回はとりあえず「あー、もうここはスルガだったんやね」と実感しているだけでありますが(笑)。

川邊神社

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さて、道行きは今度は南方へ。狩野川の川端へと出まして、その名も「川邊神社」さんへ。

もう神社の目の前は狩野川のコンクリ堤防だ。まさに川辺の神社である。こちらも事前には何ひとつ分かることのなかった神社さんなのだけれど「ここへは行っとけ」と囁くのですよ、あたしのゴースt(ry

そして……あたしの神社センサーは実に正しかった。境内には立派な由緒の石碑があって、現在は神産巣日神・高御産巣日神・別天神を祀るが、もともとここは第六天であったとある。しかも「古来は第六天社と称し水上の守護神として船方衆の崇敬があつく特に領主の運輸を職掌する船手名主船手衆の崇敬が篤かった」とある。オドロキモモノキの「海の第六天」なのだ。
詳しくは端折るが、これまで見てきた第六天は概ね「地神」のポジションだった。あたしも第六天は農村の祀るもの、とほとんど決めかかっていた。それがここに来て「船方衆の崇敬があつく」なのだ。
目の前の川に出ればこうであり、もうすぐ沼津港である。土地柄からしても確かに農とは無縁であろう。奥の方に日守の山とか鷲頭山とか中伊豆編でおなじみの山容も見えておりますな。
さーて、船乗りが祀る第六天とはなんぞやというと今の所ノーアイデアだ。しかし、この後もう一例それを見ることになる。いずれこの方面でも考えを進めなければならなくなりそうだ。

新玉稲荷神社

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川邊神社からさらに狩野川沿いに下ると「新玉稲荷神社」が鎮座される。小さなお稲荷さんだが、市史でも特筆されている。安政年間にコレラが猛威を振るったが、東海道と海路によって伝播し、その交点である沼津でも猖獗を極めた。この危機に際して勧請された・活躍した社、という一群が沼津にはあり、ここ新玉稲荷さんもそうなのだ。
コレラ流行の前には江戸を木っ端みじんにした安政大地震もあったのであり、揺れた範囲はそう広くなかったとはいうが、沼津も無傷ではなかっただろう。泣っ面に蜂である。
この折に、この地のある婦人に新玉稲荷の神が神がかって託宣し、薬を配布した。これが有名となり、沼津一帯は勿論、静岡、伊東、さらには横浜の方からも講集団が参ったと記録にある。もともとはお寺の守護であるような稲荷さんだったのだが、一気に地域を跨ぐ信仰の社となった。
土地の信仰の歴史というのはこのように一事によって全体のオーダーが変化してしまうような場合もあり、また時間がたっておさまる所におさまっていくという恒常性もある。近世などの動向が伝わる所は、その振幅が見える所でもある。

蛇松

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また狩野川に。ぐいーんとクレーンが動いておって何をするのかと思って見ていたらボートが吊り上げられた。「お?おぉー!」とアホのように見ているあたし(笑)。ま、海近し、ということではある。
おっちんでんのかと心配になった猫さん。そりゃあもう大胆不敵にスイヨスイヨと爆睡してござるのでありました。沼津は海の方にくると猫だらけ。
さて、ここから西に行ったらすぐが沼津の海と言えばの千本松原なんだけれど、あたしは松は松でも松違いの地「蛇松(じゃまつ)」の地へ。「龍学」ですから、えぇ、えぇ(笑)。狩野川最下流部右岸ですな。昔、地名に名を残す事になったウネリくるった大松がこの地にあったそうな。伝説ではなく明治21年に貨物線を敷くにあたって伐採されたと記録にあり、また幕末に絵も描かれており、存在そのものは本当である。そして、付随した伝説の方も面白い。

駿東郡清水村黄瀬川に若い修業者が住んで居た。或時みめ美しい一人の娘が尋ねて来た。そしてついに夫婦約束をした。がこの娘が或日のこと蛇になって仕舞った。そして港町の方に逃げて来た。若い修業者は余りのことに転倒して、発狂して自殺してしまった。その蛇は沼津狩野川口で死んだ。その跡に大蛇の這った様にまがりくねった松が地面に生えてゐる。(『静岡県伝説昔話集』)

『沼津市史 資料編 民俗』より引用

またこうとも言う。

沼津市狩野川の西岸の河口の松林中に蛇松がある。昔二人の相愛の者があって、其の女の方が殺されたが、其形がすぐ蛇の如き松となりうねって居た。それを一寸でも傷付けると血が流れ出たと云ふ事であったが、それが最近に至り、松やにである事が判った。

『沼津市史 資料編 民俗』より引用

蛇が樹木になるという伝説は意外とないのだ。大蛇を葬った塚の上の木が云々というのはあるのだが。この沼津の話も微妙なのだが、比較的蛇と松の距離は近いのが注目される。逆に木が蛇になる(丸太橋が蛇だった、丸太と思って腰掛けたら蛇だった)のは枚挙に暇ないのだけれど。
そして、沼津の伝説の松というのも怒り松だの臥竜松だのとたくさんあって、どうも神性のある樹木=松という感覚であるらしい。勿論現在の「沼津市の木」も松であります。
浅間・丸子神社さんの写真ももう一度見ておこう。拝殿前は、向って左が桜で浅間さんだが、反対は松でありこれが丸子さんの木なのだろう。国造にまつわる社かもしれないのであり、沼津の木、という意味でもあるだろう。
その他にも「傷付けると血が流れて祟る」という一方、流行病の際はそういった松の木の根から皮を剥いで来て煎じて飲ますと云々といった効能も語られるのだ。まだ全体がどのようかは判らないが、沼津を知るには「沼津の松」という視点が必要そうである。

楊原神社

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そしてまた狩野川を渡る。ふっじっさーん!とやる予定だったのだけれど天気明朗なれども富士山は雲掛かり、残念(ちなみに狩野川最下流部はこのラインのみ富士山−狩野川と並ぶ)。

そこから東へズズイと進みますと広域には香貫(かぬき)という土地となり、名神大社にして伊豆國田方郡式内:楊原神社の最有力論社である「楊原神社」が鎮座される。楊原は「やなぎはら」ですな。問題は以降述べるが、額面通りとするなら田方郡唯一の名神大社であります。もとは東南東方一キロほどのその名も楊原という土地に鎮座されていたが、後北条と武田の戦火に巻き込まれて灰燼と帰し、現社地に遷られた。伊豆國三宮格でもある……のだけれど。
中古近古は大宮明神・香貫大明神などと呼ばれており、式内:楊原神社であるという伝が連綿として来たわけではない。今「名神大社の楊原神社にお参りしたい」といったらここに来ることになるのではあるが、そもそもここは伊豆國だったのかという所に遡って実態はよく分からない。
吉田東伍は玉作神社から香貫一帯を駿河國玉造郷に比定し、楊原神社(及びこの次の大朝神社)を伊豆國の式内社とするのはあたらないと見解している。しかし、一方の論社である三島大社摂社の楊原神社は総社に集められた社と思われ、そうなると伊豆國式内:楊原神社は宙に浮いてしまう事になる。難しいのですな。

三島大社問題に関しては次の最後段の補遺参照
▶「田方行:長岡・田京
ま、その辺急に解が出ようはずもないので周辺の事を。本社殿お隣に吉田神社が構えられているが、ここも安政のコレラの猛威に際して勧請されたお社。幕末の色々な脅威の連打に際して、駿河東部では唯一神道の吉田神社が繰り返し勧請された。
境内の隅には「○○家」とある御屋敷神のような祠も。そうそうたる官社というより土地の鎮守さんの色合いが濃い。
婆ちゃんが銀杏拾いに夢中だったりと、のどかな神社さんですな。んが、伊豆には伊豆山の修験者が行なう伊豆半島一周の行があるのだが、この地香貫の楊原神社・大朝神社・玉作神社への納札をもって終了とする習わしだった。
だから伊豆山はこの地を「帯解け」という。これも千年続いたと言われる行であり(伊豆峯次第)、そうしてみると伊豆だった、とは言える。また、細かな境内社の事が分からないのだが、こちらとかもしかしたらキノミヤさんかもしれない(後述)。

大朝神社

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楊原神社さんの前からはまっすぐな道が続いている。写真の道奥が楊原神社さんですな。これが次の非常に関係の深いお社である大朝神社さんまで続いているかというとそうもいかんのだが、このあたりまでは「その意味」だっただろう。

そして、その方向へと向うと毎度おなじみな牛臥山という名の丘があって、「大朝神社」が鎮座される。「おおあさ」であります。ここも伊豆國田方郡式内:大朝神社の最有力論社。先の楊原神社さんとは縁が深いというより一心同体のお社であり、祭も同時に行なわれ、神輿が楊原から渡御される。大朝を奥宮とし、楊原が里宮であるような関係だったのではないかとも言われるが、地元では端的に「姉妹の神さんだ」とされている。
また、こちらも「大朝神社」となったのはそう比定されてより後であって、もとは山宮さんとか潮留明神(後述)などと呼ばれていた。しかし、不思議な御社殿ですな。今まで見た中でインパクトベスト5に入る。
で、あたしが思うにですね。奥宮・里宮というのはそうなのだけれど、もしかしたら「海を挟んだ両社」じゃなかったかと思うのですよ。大昔はね。おなじみ海面上昇図で7m上げると、狩野川河口部はほぼ水没する。
大朝神社さんは牛臥山の海とは反対の斜面下にあって内地の方を向いており「海の神社」としてはピンと来ないのだけれど、楊原・大朝両社を見るとほぼ対面していて、要は海を渡るロープウェーの駅のような格好だったのじゃないかと思うのです。

楊原・大朝神社が伊豆國式内の両社であるかどうかはともかく、この地の古い海への信仰を伝えるお社であることは間違いないだろう。そして、牛臥山が島だったとすると「潮留明神」もよりピンと来るものになる気がする。
このあたり土地名は「我入道(がにゅうどう)」というスゴイ名なのだけれど、これは日蓮さんがこの地で「ここが我が入る道である」と言って上陸したからそうなったのだそうな(臥牛島(がぎゅうとう)からの転訛じゃないか、とも)。
そして「潮留明神」伝説とはその日蓮さんがここで曼陀羅を掲げ津波を食い止めたのでそう言うようになったというもの。また松でもあって「曼陀羅松」もあったそうな(今もあるのか?)。
牛臥山を少し離れて見るとこんな。日蓮伝説はともかく、湾口にある島というのは外海からの禍を防ぐ神としてまま祀られるものである。牛臥山が島であったとすると、このイメージにぴたりと合う。このあたりに大朝神社さんの本質はありそうだ。
境内には山神社さんがあって、その脇から山上へ登る階段がある。これは普段行き来する道というよりも、緊急避難路なのだ。
この地にあって津波の際には高台へ走れ、という感覚は染み付いたものがあるようで、ここから淡島の方まで海沿いの村里にはそこかしこにこの「津波非難口(経路)」の坂・階段がある。「潮留明神」の名をこそ良く覚えておくべきだろう。
また「伊豆」なのか、という話も。大朝神社さん境内には楠が大きくあって、かなり伊豆的な雰囲気になってきている。
そして、境内社には「木ノ宮神社」さんもある。キノミヤさんに相違なかろう。実は、楊原神社さんの元地の近くにも「木ノ宮」という小字がある。もともとキノミヤさんが単独にあったんじゃなかろうかね、とも思われる。
無論伊豆修験の行く所キノミヤあり、という感じで小山の足柄神社にも杉桙別命が祀られていたりするのではあるが、海際と内に入っての両方に木ノ宮があったとすると、オリジナルに近い感覚があった可能性もある。詳しくは端折るが、キノミヤさんには浜に寄り来たりて、後内地に遷座され木の神となる、という傾向がある。もし、そのような信仰空間がここにあったとしたら、極めて伊豆の海的なものが昔からあったのだ、ということになるだろう。この木ノ宮神社の存在は良く覚えておきたい。

牛臥山公園

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牛臥山下の海浜の公園入り口はこんな物々しい対津波システムな門扉。
すぐ下から見るとこんな。三角ですなぁ(日蓮さんにちなんで寺もあり、七面様の祠もあるようだ。蛇クサい……笑)。
海の方を見るとこう。左の三角は鷲頭山。右から三分の一くらいの海上に見える三角は淡島。円錐物件には事欠かない……という所はもうほとんど伊豆の特徴でもある。てか、あの島の向こうまでまだこれから歩くのですよ、ほっほっほ。

はまおり

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さあ、このあたりで予告していた「驚くべき葬礼」を紹介しておこう。こればっかりは実際に行会う可能性は低いのだが(というより行会わない方が良いわけで)、沼津市域全般に見られる民俗だ。その名も「ハマオリ」という。
『綜合日本民俗語彙』には「ハマオキ」の名で収録されている(『沼津市史』にその表記はないが)。神輿が海に入る「ハマオリ」と分けるためかね。実際沼津で「ハマオキ」と言われたかどうかは分からない。が、まずこれを引いておこう。

静岡県沼津市では、四十九日を過ぎてから新佛の位牌を濱の波打際に持って行き、砂石を積んだ上に据えて菓子などを供え、親族一同濱邊に敷物を敷いて酒肴をともにし、精進落ちをして歸る。位牌を濱に置いて歸るので濱置きというのであろうといっているが、オキは祭の意味ではあるまいか。

『綜合日本民俗語彙』より引用

ということなのだ。しかし、市史の方では「置く」という感覚は薄く、位牌を海に投げ込み、戻ってこないように上手く遠くに投げられることが求められた、という感じが強い。内地の方では川に下りてやはり位牌を「流す」のであり、置くより流すが本来のように思える。
完全に駿河の方である原・片浜から沼津港周辺、逆に完全に伊豆の方である西浦の方まで同様に行なわれているようで、どちらからの民俗であったのかは今の所よく分からない。んが、これは常陸の方から伊豆半島までに連なる神輿が海に入る浜降りの神事とも無関係ではあるまい。というよりも浜降りの意味が何であったのかを端的に伝えてしまっている葬礼の次第だと言える。
まったくたまげた話だ。いや知らなかったのですよ、あたくしは。沼津なんて近いといえば近いのに。まさに看脚下、である。
三枚橋の方では昔は海まで行っていたが、今は狩野川に流す、とあり、このあたり同三枚橋の日枝神社さんの例大祭の渡御が海から川までになってしまった次第を連想させる。ともあれ、沼津のあらゆる海に関する信仰の根元にこの「はまおり」の葬礼感覚がくるのに違いない。沼津の海は、そこが帰ってゆく所であることを今に伝える海であったのだ。

道行き

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しみじみと「はまおり」の模様などに思いを馳せつつ浜沿いを歩いていたのだけれど、人々の暮らす方に小さな赤いお宮が。弁天さんかお稲荷さんか。ともかくここで「現世」の方へと引き戻されまして、街道へ。
海の村里というのは実にコマゴマとしたお宮を祀っている。ここも中は流造の祠だったので何かのお宮だ。嵐にあっても大丈夫なようにという造りで、あるいは海際にあったのかもしれない。
その背後に。うーむ、こうなると道祖神さんなんだか違うのだか分かりませんな。
路地の向こうに稜線が見え、岩肌が露出していた。新しくは見えない。こういうのは海からの「山アテ」の目印になっていて名前があったりするので要注意だ。
ここは小字馬込という土地。どういういわれなのかは分からないが、馬頭観音さんがちらほら。伊豆の海際に馬頭観音さんはあまり見ないので、地名と何か関係するのかもしれない。

ところでこのあたりより広くは志下というところで、神社も三社ほど固まってあるのだけれど、今回はスキップで。よく分からない、というのもあるが、どうも崖崩れがひどいことになっていて鎮守の八幡さんも直後まで崩落が迫っておって……という感じ。ここはそのあたりが落ち着いた頃に、また。

吾妻神社

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で、あたくしは獅子浜という所の吾妻神社を目指して丘を登ってきたのだけれど……封鎖されとる?この上のはずなんだがガガ……

ナーンたるこっちゃと思っておったら、すぐ下に何やらお社らしきものが。ピカピカだが……こっちなのかしら(?o?)
結論からいうと、ここが獅子浜の「吾妻神社」さんで良かったのであります。ほんの三年くらい前に先の登った上の社地が崖崩れで倒壊してしまい、下ったこちらに再建されたのだという。
それでも海を見守る造りに違いはなかった。そう、ここは今回の行程でも重要な所で、西相模から東伊豆の海に点在する吾妻神社群と同様のお社なのではないか、ということを確認しにきたのだ。間違いあるまい。この吾妻神社群は海を見下ろす丘上・中腹に構えられ、海からの山アテなどの指標となっている傾向がある。最も代表的なのは西相模二宮町の「吾妻神社」で、一般にここが西限とされるが、実は東伊豆の海にも波及しており、稲取の「吾妻権現神社」などが典型的である。

「吾妻神社(神奈川県中郡二宮町)
「吾妻権現神社(静岡県賀茂郡東伊豆町)

伊勢神明宮

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下ってきましたところに「伊勢神明宮」が鎮座される。誰か居たら吾妻さんのことを訊ねようとか思いつつ(で、見事に土地の爺ちゃんがいて、先の吾妻さんのことが分かったのでした)。
ここは詳しくは分からないが、ここでこの海の「神明社」のことも指摘しておこう。実はこのあたりは浦ごとに神明さんを祀っており、これは特徴と言えると思う。何となれば東〜南伊豆には神明神社はほとんどないからだ(熱海下多賀くらい)。
この特徴に鑑みて思うのは、我入道の大朝神社のことだ。現在の大朝神社の御祭神は大日孁貴神であり、白水『日本の神々』などでは、これを社名からだろうとしているのだが、あたしは「浦ごとに神明社を祀る」というこちらの傾向の延長ではないかと思う。最後の方に参る長浜の式内:長濱神社も、土地では神明さんだった。沼津のこの浦々の神明さんを祀る、という傾向は周辺神社の考察へ織り込んでおかないといけない。
本社殿の傍には小さな祠群がわらわらと。あたしは伊豆の海では船一艘(船霊一柱)に対して対応する「浜宮」がそれぞれ浜に連なっていたのじゃないかと見ているが、それらの末かもしれない。
燈籠には深々と椀状穿痕が(基部)。先ほどの爺ちゃん曰く、「昔は子どもらがそのくぼみで〝トリモチ〟搗いていたもんだなぁ。あんた、トリモチ知っとる?」ということであります。おー、なるほど。トリモチか。
吾妻神社と伊勢神明宮に関して「山アテ」の線から補足しておこう。写真左の少し登った所に吾妻さんが見えている。その後背にこうしたピークがあり、さらに写真右方には鷲頭山が聳えている。
地図を見ると添付図のよう(上矢印が吾妻・神明、下が次の白髭)。明らかに海上の位置を特定する「山アテ」の指標であると言えるだろう(山アテに関しては吾妻神社群とも関係して以下「龍神社」の稿参照)。

「龍神社(静岡県伊東市)」

ナンドのケッケ

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ところでここ獅子浜だが、以前ちょろっと紹介したレアな怪異譚が伝わった所でもある。産の怪異「ケッケ」だ。他に機会がなさそうなので、ここで詳しく紹介しておこう。

ナンドのケッケ:
出産はナンドでおこなった。出産するとナンドで三三日間寝起きした。ナンドの入り口は、敷居が少し高くなっていた。これは、昔、獅子浜でケッケという鳥を産んだ産婦がおり、その鳥は産まれるとすぐにナンドから逃げ出して、カッテのヘッツイの裏にかくれて鳴きだし、その声がケッケと聞えたことから、その名前がついたという。それから敷居を一段高くしたのだという。(『沼津静浦の民俗』)

『沼津市史 資料編 民俗』より引用

相模足柄上郡武蔵浦和の「ケッカイ」の怪の話の流入だと思うが、音から鳥になってしまったのですかね。何にしてもレアな怪の話ではあるだろう。

白髭神社(獅子浜)

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そんな獅子浜をさらに南下すると岬の付け根あたりに「白髭神社」が鎮座される。猿田彦命を祀るという以外委細不明だが、一見して了解。後背の岩山だ。来て見るもんである。
「白髭神社」がどのような意味合いでこの海に祀られるのかはまだ分からないが、最終盤の長浜にてまた問題となる。どうも「示顕した神」というところが重要であるようだ。こちら獅子浜は山アテの指標として後背の岩肌が重要だろう。
そしてこのお社が淡島を向いていたりなんかしたら「ビンゴッ!」って感じだったのだけれど、そうじゃないようだ。左の方に見えてる三角が淡島。ここ獅子浜白髭神社はやはり鷲頭山からのラインと見て良いようだ。

ちなみに「獅子浜」という地名の由来はよく分からないのだが、吉田東伍や『駿東郡誌』(大正六年)は『和名抄』に見る駿河の「宍人郷」の遺称であるとしている。もしそうなら平安時代にもこのあたりまで駿河國だったことになる。
岬(大久保の鼻)をぐるりと回りまして、江浦へ。もうなんだか海の出口も見えずに自分がどこ向いてるのかもよく分からん(笑)。

住吉神社(江浦)

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この江浦には「住吉神社」が鎮座される。こちらも委細不明だったのでスキップする予定……だった。
んが、なんか御社殿の前に案内があるよ?ということでお邪魔することに。これがびっくりで県指定無形民俗文化財の「江浦の水祝儀」という神事があるそうな。県指定なんだから事前に知っとけよという話もあるが、まぁ(笑)。

前年までに結婚した花婿を祝福する「水祝儀」の儀式を産土神住吉神社で行なっている。正月二日の晩に、社殿での神事の後、青年会館において関係者参列のもとに、青年と花婿・添婿との間に前後二度のレイシュ(礼酒・冷酒)と呼ばれる坏事がある。坏事の間に音頭取りの祝い歌に併せて女装の青年が境内で手踊りし(祭礼歌舞)、花婿・添婿に水を掛けて祝う儀礼によりハイライトを迎える。

境内案内より引用

これがですね、どうにも熱海下多賀の「下多賀神社」の「水浴びせ式」に似てますな、という。下多賀は非常に古い神事を伝えているということで文化財となっている。江浦は近世からとあるが、どうなんかね。

▶「水浴びせ式」(熱海市観光協会)

下多賀の「水浴びせ式」は重要な民俗として白水『日本の神々』をはじめ良く紹介されているが、この沼津江浦の「水祝儀」への比しての言及は見たことがない。これが関係ないってことはないだろうし、良く覚えておかんといけない。
また、境内社さんの事も。写真向って左は「第六天社」だった。このあたり急峻に下って海、なので農地も蜂の頭もなく、漁師文化圏なのだけれど(今は観光もだが)、こちらも川邊神社で端緒がついた「海の第六天」に相違ない。
各社に皆馬の札が。どこからだろうかね、内浦の方には駒形さんもあるようだが……どういった関係かしら。

道行き

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住吉さんをあとにしまして行く道に。なんじゃこりゃー物件(笑)。どうももとはトンネルを道が通っていたのだけれど、切通ができて用済みとなったらしい。いくつかあった。
で、ですな。その使われなくなったトンネル入り口に伊豆型道祖神さんが並んでおったのだけれど、これがまた何たる事かという……
これは明らかに「剣持」だ。真ん中は曖昧だが、左右は間違いあるまい。なんとなぁ。東伊豆、片瀬・稲取の方で「大変珍しい」と騒いでいた剣持タイプの道祖神さんがずらっとですよ。歩けよ、さらば現われん。
「今は昔トンネル」はこんな風にマウントと化しているものも。これは津波時に避難するためのマウントなのだ。このあたりは後背の高台は急峻すぎて登って逃げろといってもそうはいかない。そのため海浜にマウントの準備があるのだ。
ワイルドトンネル。これジオ物件とかに入らんのかね。

多比神社

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湾の奥まった所は多比(たび)というこれまた由来不明の不思議地名の土地だが、そこに「多比神社」が鎮座される。もとはエビスさんだったが、御嶽神社と合祀され土地名を冠したお社になった。
こちらは伝統の「対津波マウント」ですな。先の現代マウントを見てすぐなので、その役割がよく分かる。
伊豆の漁師は良く(三嶋大神ともまた別に)エビスを祀るのでそれ自体はどうというものでもないのだが、御嶽神社がかつて多比にあって合祀されている事を覚えておかれたい。日本武尊を祀る御嶽神社であります。
で、これがまた……いやぁもう……沁みるねぃ。日ざしの加減のせいだけではないだろう。伊豆の道祖神さん五指に入るすてきシーンだ。決定。ていうかですね、だからこうして姫神なんですよ。僧形ではなくこちらが本来なのだ。
先代の狛犬さんも随分立派なものだったようだ。こっちのままで良かったんじゃないかと思うが……相方が居なかったからそちらが壊れちゃったのかな。
また、ここは額がすさまじい事になっていた。これはなぁ。たまたまでこうはならんだろう。どういう職工が携わったものか。

金櫻神社

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多比を過ぎると狩野川放水路の出口になる。夏にこの向こうから「この向こうは沼津の海だ」とやっとったわけですな。

▶「田方行:長岡・田京
ここを口野といい、伊豆の入り口だからそういうそうな。このあたり近代まで駿河駿東郡だったのですな。もっともやはり山が海に落ち込むような獅子浜の方からもう「伊豆」以外の何ものでもない感じだったが。

その口野に「金櫻神社」が鎮座される。脇の大通りはもう歩道もなく、この鳥居後から延々登る。他に道はない。普段お参りするような神社ではないのは瞭然だ。
金櫻神社は甲斐のそれで、本家は日本武尊を祀るというわけではないのだが、まぁ、日本武尊由来のお社ということで、こちら口野の金櫻神社は日本武尊を祀る。
社殿後背にまた鳥居があり、山上に道が続いているが、昔はもっと上に神社があった。そのピークがどこか分からないが「金櫻山」なのだそうな。今でも結構登った所だが、さらにピークだったというのも重要だ。
境内にはそのかつての登り道にあったのであろう道標が。さて、獅子浜の吾妻神社、多比の御嶽神社、口野の金櫻神社と三社にわたって日本武尊系のお社があったわけだが、多比がどうあったか分からないが、口野と獅子浜は明らかに似ている。
ここ金櫻神社も先述の吾妻神社群同様の理で造営されたお社に見える。日常的にお社に参るための造営はなされておらず、これは海から遥拝するための社であろう。もとは皆吾妻社であったのではないか。日本武尊そのものを海の民がどうこうするというのはピンと来ない。船の航路を示す神は海に還った存在でなければならないはずだ。あたしは吾妻社の並びに日本武尊がオーバーラップしたのだと思う。

また、先の「田方行:長岡・田京」中盤の戸沢集落の劔刀神社(式内:劔刀乎夜爾命神社)が日本武尊の伝を持っていたことも思い出されたい。金櫻神社後背の山を越えたら戸沢なのだ。

▶「戸沢:劔刀神社」(Googleマップ)

口野から淡島の方は沼津というよりも長岡と結びつきが強く、人の行き来はそちらにあった。今でもバスが多く往復しているのは長岡の方である。戸沢劔刀神社の日本武尊の伝は、このあたりに関係しているのではないかと思う。
いずれにしても今回の収穫は、西相模からの吾妻神社群同様の理で造営される社が西伊豆にもあるのがはっきりしたということだ。これが伊豆半島をまわってきたものか、内地を横切ったものかはまだ分からないが、「西限」の意味は大きく変わってくるだろう。また、相模湾からすら外れる事により、その根本が弟橘媛の神話「ではない」ことも一層はっきりしてくると思う。

淡島

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行く道に。どういった神社さんかは分からないが、コンクリ壁におおわれた奧に鳥居が見える。ここも崖崩れで封鎖のようだ(反対に重機の入り口はあるけどね)。
こうして見てきて思うに、ここの海の民にとっては「地」というのはさっぱり恒久性を持たないイメージなんだろうなぁ、ということだ。去年と今年で「地」の削れ具合が異なるのなんざ当たり前のことなのだろう。農民の土地の神への神祇とはまるで異なるのだ。変わらぬのは海である。
そして淡島へ。写真はさらに南下して南の方から撮ったもの(レポ位置からは超逆光で真黒なので)。現代の観光開発以前は基本的に無人島だった。見てのようにすぐ渡れるといやそうなので、利用しようと思えば昔から有効利用できる島だったろうが、禁足地に近い扱いだったのだろう。島内からは弥生土器などが発見されており、どういう時代にまたがるのかまだ分からないが、祭祀遺跡ともされている。
いずれ重要な聖地でありつづけたに相違ない島なのだけれど、さて。現在余所者が島に渡るには「あわしまマリンパーク」に入園するよりない……というのは知っていた。昔はロープウェイが行き来していたが、老朽化により今は船で行く……はずだったのだが……

なーんと!案内によるとカンジンカナメの淡島神社さんへの道が「マリンパークのお客様は通行禁止とさせていただいております」だと?あっはっはっは。ちょっと待って(TΔT)
いやあなた、「淡島神社(厳島神社:左地図)」は伊豆國式内:白浪之彌奈阿和命神社の論社にも名のあがる伊豆編では重要なお社でありますのことよ。どーすんの、どーすんのとやや慌てつつ、案内のオネイちゃんに「あの、島の神社さんへは……」と尋ねてみますと「行けないことになっておりますぅ」とのこと。「他に行く方法は……」と食い下がってみますも「ないですねぇ」とバッサリ。マイッタねコリャ。
うーむ、どうしたもんであるべいか、といっても今回はもうどうしようもないので後日なんとか策を練るしかないのだが。いや、これ以降見ると分かるが、あたしはこの湾一帯の信仰空間の解題にはかなり力を入れたいと思っておるのですよ。ぐぬぬ。
相当くたびれてんであります所にクリティカル喰らったようなもんで、かなり消沈しつつ見上げる内浦の丘。まぁ、こんな風に山からすぐ海なんですな。んが、斜面には「農」が見える。内浦蜜柑ってやつか。

なんとか気をとり直しつつ内浦を南下。まずは内浦三津(みと)の氣多神社さんを目指したのだけれど、どうも子どもちゃんたちの遊び場らしく十人以上がワーオギャーオと大騒ぎ中でありましたので、こちらは後で引き返してくることに。

長濱神社

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さらに南下すると内浦長浜となり、歩きだと17号線のトンネル手前、シーパラダイス脇から抜ける道を行くと写真のような所に出る(左奧から来たことになる)。この右の坂を登る(案内などは何もない)。

ここに伊豆國式内:長濱神社である「長濱神社」が鎮座される(他に論社はない)。だがしかし、法人社でないので神社庁の方を見てもないので注意。
さて、ここ長濱神社については「長濱御前」を祀る社なのかどうかがキモにくる。長濱御前とは伊豆諸島神津島に祀られる伊豆三嶋大神の后神・阿波命。古い記録では「正后」であったとされる。このあたり詳しくは以下参照。

▶「月間神社(静岡県賀茂郡南伊豆町)
神津島の阿波命神社は神津島の「長浜」に鎮座され、こちら沼津長浜がその分祠であるか否かと議論が分かれる所なのですな。『増訂 豆州志稿』がこの論を打ち出したという観だが、『式内社調査報告』などは疑問だとしている。
ま、そのあたりは追々。もし阿波命が祀られていたなら、伊豆三嶋信仰最恐の后神の社だということになるわけだが……わはははは、狛犬さんは何ともとぼけた風情でありまして。昭和狛で新しいんだけどね。

そもそも長濱神社も近世は神明社でありまして、長浜の地名より式内:長濱神社に比定されて社名・祭神を改めて(現在は阿波命を祀る)、ということであってこれまたその伝が連綿としてきたというわけでもない。検討すべきことはまだ山とあるのだ。

白髭神社(長浜)

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お次はその検討すべきことの第一であります同内浦長浜の「白髭神社」さんであります。長浜の鎮守というのはこちらであった。
近代の神社整理期には長濱神社さんも一時こちらに合祀された。んが、途端に疫病蔓延で人死にも出たことから復祀されたのだ。合祀と復祀の怪異譚のある所でもあるのであります。
そして、古墳時代などの古い時代の祭祀場はここであったかもしれないと考えられている。現社地を整備する際、ここ(白髭神社遺跡)からは「子持勾玉」を筆頭に祭祀遺物の数々が出土しているのだ(全貌は調査されていない)。

「子持勾玉」(滋賀県高月南遺跡)
 (webサイト「滋賀県文化財学習シート」)

出土した子持勾玉にネットで近いものとなると……上サイトの子持勾玉の写真に、さらに線刻があるような感じだ。『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』にはカラー写真があります。

さらに興味深いのは、このお社の社伝である(白髭神社の社伝というか土地の伝承だが)。

麻の坂:
内浦地区長浜の長浜神社のあたりは麻ノ坂とよばれている。ここは、麻が多く作られていたので麻ノ坂と呼ばれるようになった。あるとき、白髪の老人があらわれ、「麻の坂に麻蒔き初めてうみ初めて磯にへさせて浪に織らせん」と歌をよんだという。(『沼津市誌』下巻)

『沼津市史 資料編 民俗』より引用

歌は俚謡としてうたい継がれたものだ。この老人が白髭神社の神であることは間違いなく、長濱神社との繋がりの深さが伺える。長濱神社さんへの坂途中には「麻ノ坂此上」という石柱もあった。
さらに、『増訂 豆州志稿』によると、「其海岸ヲ麻溪ト稱ス」ともあり、海の名まで「麻」だったようだ。これは阿波命と関係して重要なことだ。端折るが、ここから大仁〜修善寺に掛けて麻の話が良くあり、式内:大朝神社の比定とも関係する。

しかし、これらが一体どのようなストーリーの上に並んでいたのかというのはよく分からない。『式内社調査報告』は「長浜」の地名は地勢の特徴からついた名であり、長濱御前とは関係なかろうというのだが、長浜の名にふさわしい浜があるのかというと無い。
シーパラダイスの沼津側あたりに少し砂浜があるが、シーパラ絡みでそうしたのじゃないか。今となっては海際まで建物が並んでしまっているので何とも言えないが。また、淡島を遥拝する祭祀空間があったのだろうともいうが、これも実は微妙な点がある。
周辺各社で淡島をはっきり捉えている社がないのだ。矢印は皆正面方向。先に見たように倒壊・再建をくり返してきただろう地なので、本来の方向ではなくなっている可能性はあるが、わりと執拗に「向き」が意味を持つ伊豆のことと思うと微妙である。
特筆すべきは長濱神社が式内:鮑玉白珠比咩命神社の最有力論社である鮑玉白珠比咩命神社(赤碕明神・木負神社)の方を向いていることだが、現状その意味は分からない。鮑玉白珠比咩命神社鎮座地地名の木負は子負の転訛と考えられ、伝承などを見ても子安の女神といえるところ。
補遺で扱うが、函南町の肥田神社には沼津・長濱神社から勧請された后神が子安の女神として祀られていた、という流れがあり、このあたりに何かがああるかもしれない。

▶「田方行・函南

そんなこんなでなんとしてでも淡島の天辺に鎮座される淡島神社さんから「どう見えるのか」が実見したいのだけれどねぇ……という内浦の海なのでありました。ふごふご……と思いつつ、白髭さんから三津(みと)へと戻りまして。

氣多神社

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先の三津「氣多神社」さんへと。ちょうど子どもらも(半分)帰るとこですな。良い神社さん。というより内浦一帯の現在の総鎮守格はここである、という雰囲気だ。
氣多神社さんも由緒などはよく分からない。八幡さんという位置づけであったようで、氣多は誉田別命の母を氣多羅司姫と書いて(気長足姫尊・神功皇后)、そこからということだとされていたようだ。
能登國一宮・氣多大社的な何かはまったくない。鮭がのぼるなんてこともなかろう(笑)。ただし、貞観元年鎮座と伝えたというから「古い社」という感覚は周辺随一であったろうと思われる。
また、伊豆國式内:阿米都瀬氣多知命神社に比定する論もある。氣多が共通するから以外には特に何があるとも思えないが(最有力論社は三島市の「左内神社」)。ここが内浦の信仰空間にどのように位置づくのか。どうなんでしょうかねぇ、狛犬どの。
一応覚えておきたい所としては、氣多神社そのものは淡島というよりその隣の海の出入り口を向いているが、淡島上の淡島神社は地図を見る限りでは概ねここ三津を向いているということだ。楊原・大朝両社に見たような「海を渡るロープウェイの駅」的なお社があったとするなら一番ありそうな所ではある。

おわり

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とまぁ、そんなところで。沼津駅発の神社巡りもここで幕なのでありました。良く歩いたこっちゃ。シーパラから長岡のバスでかつての戸沢入り口あたりの感じを追想……とか思っていたのだけれど、バスが走り出すなり爆睡してしまって記憶にない(笑)。
ともかくこの行程の中に、これから追うべき課題がてんこ盛りに提示されたというのは間違いあるまい。玉作のこと、楊原・大朝両社のこと、吾妻社のこと、長浜のこと、とどれをとっても一級品の顔ぶれだ。ここから南の西伊豆は交通の便も良くなく、辿るに難儀な土地ではあるが、入り口において既にその甲斐があると確信できた一日であったといえましょう。歩けよ、さらば現われん。

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沼津行 2012.10.27

惰竜抄: