東相模行:横須賀・三浦

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.02.04

本年度は相模およびその周辺各地への進撃も再開しましょうかという心持ちなのだけれど、どこへ行くべいかというとあっちもこっちもと魅力溢れる話が積もりに積もっておりまして、さて、という感じ。
で、ここはひとつ房総から常陸への人の流れ的にも重要となる三浦半島へまずは行きましょうということになりました。ま、「日本の竜蛇譚」のロケハンもあるんだけどね。
というわけで常陸行よりはややのんびりと六時くらいに出発しまして、えぇ、ここしばらくの陽気から「ジェットサムイぞなー!」とかひと騒動かまして出発するようかと身構えておりましたが、そうでもなかったですな。

そして東海道本線─横須賀線と乗り継ぎまして終点横須賀市久里浜へ。駅から半時程南東へ向うと、久里浜湾の脇に「住吉神社」が鎮座される。知ってたけど逆光。
東に海のあるこの地で朝逆光。即ちこの住吉神社は海に背面していることになるのだ。もともとは「住吉」神社というわけではありませんで「栗浜大明神」であった。『吾妻鑑』にも北条政子頼家出産の折の御馬奉納記録に名の出る古社である。
三浦一族の船霊として信仰されていたというのだけれど、丘をえぐった社地から見ると、今に見る社地を造成した段階で海に背面は決定していたようですな。いつだかワカランが。
いずれにしても三浦一族の海の総鎮守格ではあったのだろうということで一番にお参り。境内お稲荷さんには初午の五色の半切も。
境内に石塔群が。後にも出てくるが、三浦半島は一大庚申信仰の地としても名が知れる。ほうほう早くもと思って近づくと……なんとみな「猿田彦命」でありました。むぅ。しかも何かが引っかかる。何に引っかかっているのだ、あたしのゴーストは。
これかしら。なんとも不思議な……摩滅というよりこのようなうにゃうにゃの自然石を石塔状に加工したものか(実はここに注目していたのが後半プチヒット……ぷち伏線)。
むぅ。先代の狛犬さんが神輿殿と思われるトタン屋の前に。もうちっとこうなんとか……
住吉さんを後にしまして久里浜湾を北上。お地蔵さんも海難救助モードですな。個人的に「現代の地蔵か」と思っているアンパンマンも。まー、一日良い天気で風もさほど冷たくなく、坂道なんかちと汗ばむ程でした。
神社メグラー的にはあまり関せずなのだけれど、普通久里浜と言えばペリー提督である。むぅ「Perry-dori」という表記の妥当性は……はっ!これもいち早くローマ字表記を用いた土地の歴史的ななんかだったりするのかしら。
ペリー公園。「伯理」なんですな。伊藤博文書、でもあってザ・開国というところ。
まー、この辺港近くは猫だらけでもある。猫の方は一応抜き足モードであるものの、犬の方は「知ったことか」と寝こけてござる(笑)。
トンネルを抜けて浦賀の方へ。三浦半島は「シティ半島」なる珍妙な称号を持つ程で、思いがけず所々ピカピカだったりもする。
行く道に「花稲荷」さん。何とシンプルでお洒落なお名前。
境内のこの石が目をひいた。相模湾の漁師は三角の石を「船形石」といって珍重し、神社に奉納したりするが、これもそうじゃないだろうか。

そして目指す「為朝神社」に到着であります。わはははは。この予定があったので前夜大急ぎで「黒髪山の大蛇退治」を書いていたのですな。あの鎮西八郎為朝がここ浦賀に祀られているのであります。
もっとも鎌倉前夜といった古くからの神社ではありませんで、寛政〜文政年間この海の漁師が漂流していた為朝の木像を拾い云々という由緒。これがなぜか疱瘡除けの神として祀られている。また、由緒に見るように流れつく神の社でもある。
狛犬さんも小振りながら中々精悍な面構え。主が主だけに。
また、ここ浦賀の為朝神社は六月半ばに行われる「虎踊り」でも有名。もともとは伊豆下田の祭だったものが伝わった。これは写真家の三好さん(twitter:@miyo_photo)が撮影されています。
「為朝神社の虎おどり」(webブログ「風と土の記録」)
「よっ。精が出るねぇ」という感じのカエルさん。なんであたしはこのカエルの写真を14枚も撮ったのだろう……(?)。
浦賀湾。こんなきれいだとは思っていなかった。抜けるような青空と相まってステキ過ぎる海辺。このごろは時間が厳しい常陸行が主だったけれど、こうして近場をゆるりと回る神社巡りは良いものだねぇ。ナァ弥次さんよ(後半あせることになる)。
この湾には渡し船もある。向こう側の東叶神社に詣でる時には是非これに乗らねばなるまい(この日は行かないけどね)。大人150円なり。

そして「叶神社」へ。「かのう神社」である。先に東叶神社と言ったとおり、実質こちらは「西叶神社」となる。正保年間浦賀村が東西に分裂した際に東にも分霊したものが東叶神社。
浦賀湾に向ってこんな風に社地が構えられている。伊東富戸の三島さんや稲取の八幡さんのようだ。叶神社は文覚上人が源氏再興を祈願し石清水八幡宮を勧請したのが創祀とされる。その願いが叶ったので「叶う」神社。基本的には八幡神社なのだ。
見よこの絵馬を。これほど説得力のある絵馬が他にあろうか。実物を目にするとものすごいインパクトである。
社殿の彫刻は安房の名工・後藤利兵衛義光の手になり、横須賀市指定市民文化資産となっている。後藤利兵衛の作は当然南房総に多いのだけれど、ここ叶神社にもあるのですな(叶神社が最高傑作とも)。実に意味深い(後述)。
三頭の龍が組んず解れつの迫力。側面にも龍が。
ご本殿の屋根を支える力士像というのも珍しいですな。これも後藤利兵衛の作だそうな。とまあ、御社殿の造りなどがスゴイので細かなところをひとつひとつ紹介していくとキリがない。横須賀へおこしの際は是非ご参拝を。
さて、ダガシカシ本題はこれからである。ようやくか、といった感じの狛犬殿。あたしはこの神社は「叶う」じゃないだろうと思っていた。これは古代船枯野・軽野にまつわる社なのじゃないかと。
記紀の仁徳・応神天皇のあたりで、枯野・軽野(からの・かるの)という船の記述がある。足の速い船をそういう。この周辺では伊豆の式内:軽野神社はその用材の切り出しが行われた地だとされ、西相模足柄も「足の軽い船」の用材の地「足軽」のことだった言われる(風土記逸文)。
常陸にも軽野の船が来た記録が風土記にあるし、地名もある。そして、谷川健一先生はこれが、古代海の民のアウトリガータイプの優秀な舟を「カノー」などと呼んでいた名残りではないかとされた。あたしは叶神社はこの「カノー」の神社だったのではないかと思ったのだ。
んが、そんなことを考える阿呆はおらなんだようでまったくかすりそうな論考も見ない。というわけで「んなわきゃないデスヨネー」とあまり真剣に調べていなかったのだ。そういうずぼらをやっていると鉄槌が下る。下った(笑)。
御本殿向って右に境内社の一群がお祀りされている。その中のこの集合タイプの境内社向って右から二番目は大鷲神社で日本武尊・弟橘比売命・天之日鷲翔命を祀る。ほうほう、走水もすぐだもんねぇ、と思いつつ近よって見たあたしの目は飛び出た。
「当社は元鎮守と称し、叶神社創立前に勧請されたと云われております」と書いてある。かーいーてーあーるー!忌部の社だったのか、ここは。
話せば長いので端折るが、西からの古代氏族の東国開拓の流れで、特に霞ヶ浦周辺下総・常陸の様子を見ると、船を用立てていたのが忌部じゃないのかと思える節が多々ある。先週の神社巡りでも香島大神上陸のルートに阿波神社が鎮座されていることを紹介した
おそらくは下総神崎神社(天鳥船命を祀る珍しい神社)も忌部と縁の深いところである。同神ともされる武夷鳥命を祀る、関東平野開拓ルート上の「鷲」宮神社が例の埼玉県久喜の鷲宮神社である。同名下野の鷲宮は端的に天日鷲命を祀る忌部の社だ。
いずれにしてもここ叶神社が(阿波・安房)忌部の社であったというなら、「叶=カノー」かどうかはともかく「船の社」であり、古代船軽野を用いた東国開拓の社であったことはほぼリーチである。
境内から浦賀湾を望む。この時点で東海道相模路の東端はこの港であったとあたしは確信した。もっと早くに来てりゃあ……ったく……「後の祭」という言葉が神社以上に似合う場所があろうか……orz
しかしまぁ、なんともきれいな浦賀湾でありまして。夏のクソ暑い中ここに至っていたら、プッツン切れて飛び込んでしまったであろうことに疑問の余地は皆無。

さて、そんなこんなでまったく思いがけない手がかりを得たあたくしは、この浦賀湾の「奥」へと登るのであります。実はこれも半ばネタになるかな?くらいの、その重要性に半信半疑な事前の心持ちだったんだけれどね。事ここに至ればこれはもう大変な重要事項であるのです。叶神社には奥宮があるのだ。

桜が丘と吉井と池田町の境あたりに鎮座される「安房口神社」全体が浦賀水道を見おろす丘の稜線だが、ここはひと際高く塚状に盛り上がっている。
あまり知名度はないようだが、三之鳥居まで構える立派な社地である。この塚山自体が「明神山」と呼ばれてきたそうな。
社殿はない。構えられたこともないようだ。ここにはご神体の磐座のみが祀られている。その磐座は古代に竜宮より安房洲崎明神に献上された二つの大石のひとつだという。それはまた天太玉命の顕現であったとも伝わり、御祭神は天太玉命である。
ご神体の石は直方体の一面に丸い穴の開いたもので、その開口部を安房に向けているとされる。安房一宮、洲崎神社の鳥居脇にあるという磐座と対なのだ。
へっ、こんなとこまで来たのかよ、という「ニヤリ」狛。
これらの由来は『安房口神社明細記』として先の西叶神社に保管されているとあり、叶神社がもと天日鷲命(阿波忌部の祖)を祀り、ここが天太玉命(忌部の祖神)を祀ることを考えれば、叶神社を下宮とし、安房口神社をその奥宮とする結構であったことは間違いあるまい。
安房口神社には正鳥居・参道の他に大津の方へ向う裏参道もあり、その端にも小鳥居と由緒があった。そちらの文末を引こう。
「この大きな霊石が、何れの地から、どんな方法で運び込まれたのか……今はマテバシイの木漏れ日の中に鎮座している」と書かれている。まさに、そのとおりの光景だった。
安房と三浦を結ぶ浦賀水道の守護は忌部の管轄だったのだろう。この線の最重要神社は叶神社と安房口神社と心得るべきである。

さて、ここでお昼(まだ半分)。「神社巡り」は一段落しまして、これから「日本の竜蛇譚」のためのロケハンへと向うのであります。押忍。
大蛇巡りへ行く前にちょっと三浦半島の石塔のことも。庚申塔が多いことで良く知られるのだけれど、庚申ばかりでもない。写真は浦賀駅近くの石塔群。これは皆馬頭観音さんだった。

気になったのはこれ。「馬力組」とある。左右の石塔はこの位置に皆屋号らしき名が入っていたのでこれもそうだろうか。以前常陸城里町の「馬力神」を紹介したが(下写真)、関係あるんかね。
馬力神は北関東から宮城辺りの範囲に見られるもので、いずれ馬の供養のための石碑。
庚申さんの方はこちら。安房口神社の後向う長沢にて。こういった具合に立派な場所を与えられて祀られることが多いようですな。
所謂「道祖神」というものをまったく見なかったのだが、猿田彦命の石塔がそうなのかもしれない。写真のような庚申塔が辻祀りのスタンダードとしてまずあり、その亜種として猿田彦の石塔や馬頭観音の石塔など、というような構成なのかも。
ま、まだよく分からないけどね。この先のレポでも石塔絡みがちと出てきますので前振り。さて、道行きの方はと言いますと、安房口神社さんの後は「日本の竜蛇譚」のためのロケハンへ転じ、新大津駅で京急に飛び乗り、一路横須賀市市長沢へと向うのであります。
京急長沢駅で降り、少し北へ登ると「本行寺」というお寺がある。昔この近くに足跡の形の池があったそうな。その池もデーボコ坊という巨人が房総へ渡ったときの足跡だとされ興味深いが、今回は大蛇。このあたりに大蛇が棲みついたという。
今も村岡堰という貯め池があるそうで、地図も拡大すると出るのだけれど、行ってみますとこんな感じの完全封鎖状態(TΔT)。ここが足形の池なのかワカランが、周辺はあとは山になってしまうので多分ここだろう。
んが、簡単に諦めては龍学の名折れということで脇の山に登って上から覗いてみましょうと(笑)。う、どうもこれは既に湿地と化しているようですな。これでは大蛇ももういなかろう。
ていうかここ、本行寺の裏山とは三浦一族の埋蔵金が眠っているといわれる山なんだけどね(笑)。その本行寺はひと気もなし。イマイチ大蛇伝説とこのお寺の関係が語られないので聞いてみたかったのだけれど。
しかし、境内には「八大龍王」のお社があった。竜蛇伝説を持つ寺がその遺称として八代竜王社を持つのは定石である。これは大蛇伝説の社であるかもしれん。
さて、で、この大蛇は長沢で何をしておったのかというと〝恋〟をしておった。いや、笑うところじゃありません、この雄の大蛇君は真剣なのです。海の向こう房総鋸山の上で雌の大蛇がしきりに招いておったというのだ。中央左が鋸山ですな。
しかし、浦賀水道の海流が早く、雄の大蛇は泳ぎ渡る自信がなかったのだそうな。そこで、海に石を投げこんで、飛び石伝いに渡ろうと考えた。
んが、あまりに石が重いので投げ捨てて引き返し、房総行きは断念したそうな。この石を三つ磯と言ったという。多分今港の堤防に連なっているこの岩礁だろう。
けなげなんだかへたれなんだかよく分からん微笑ましい長沢の大蛇伝説なんだけれど、実は結構面白いモチーフを含んでいるかもしれない。ここは「浜」なのだ。この先見る他の大蛇伝説の大蛇の棲み家は皆岬である。ここが重要なのかもしれない。
お次はまた京急に飛び乗り三浦海岸駅へ。もう三浦市である。そこから剣崎行きのバスに乗り、「小浜」で降りる。その先に「雨崎」という岬があり、ここにも大蛇がおったという。
太さが四斗樽程もある大蛇で、こちらは房州との間を行き来していたそうな。付近の人々はこの大蛇を「浅間さま」と呼んでいて、特に五月の頃浅間さまが渡る際には、絶対に雨崎に近よってはならないとしていたそうな。
ダガシカシ……雨崎へと向う……道?いやもう今でも近よっちゃなんねえとかいうんじゃないかね、これは(ヨイコハマネシチャイケマセン)。ていうか道じゃなくて大蛇の這った跡なんじゃないのかしらと思わざるを……
ま、苦労して海まで行ったけど何もなかったんだがね(TΔT)。雨崎には井戸があり、雨乞いの際この井戸をかき回せば必ず雨が降ったともいうのだが(祠があったとも)。途中コンクリで固めたようなところもあったからそこだったんかね。
フゴフゴ、と通りへ戻ってきまして……通りと言っても農道なんだが……剣崎へとむかい……道に迷う(笑)。網の目状の農道を「ここは、どこ?」という有様であります。すると何やら海の方に不思議物件が。
帰ってきて調べてみたら旧陸軍の大浦探照灯格納庫なるものらしい。なんとなくジブリ。
その裏側の見晴らしが良さそうだったんでふらふらと。いや絶景かな。ていうかこの崖の際まで大根畑を作っていく三浦の大根にかける執念もすごいが。で、ひょいと左側を見ますと……
オゥ、あれがまさに雨崎ですよ。知らずと雨崎を捉える絶好ポイントに出たらしい。ガーハハハ!写真てえのは足で撮るもんなんだぜ!(※道に迷っただけです)
その後どうにかこうにか間口漁港へと向う道へ出まして、人家も並びはじめて一安心。すると庚申さんが。ここでこの日のスペアを回収することになる。
これはもはや人の造作ではあるまい。やはり、このような不思議な紋のある石を持ち帰り、石塔に加工し祀るという風があるのだろう。
同じ様なものは間口漁港の近くでも。これはさすがに人(仏)型を強調した細工をしているのだろうが、でももとはぼんやりと人型の浮んで見える石であり、それを持ち帰って石仏状に加工したというのに相違ない。
石を持ち帰るようなのは漁師のすることで庚申は農民のすることという感じだが、半農半漁が早くから根づいていた三浦半島ならではの信仰形態と言えるのかもしれない。三浦の石造物探索では、このタイプを気にしていくことが重要になりそうだ。
その庚申さんや猿田彦命の石塔の列の上にはなんともすてきな祠が。なんとなくこういう「場所」は子どもが好んで「小さな秘密基地」を想定するところと同じ匂いがしますな。
そして間口漁港へ下って来ました。「半農半漁って何ですか?」と聞かれたらこの写真を見せたらよろしいの図(笑)。
間口漁港はクルーザーなんざぁ浮んでないガチムチの漁師の港である。もっとも東京から京急→バスであっさり来ることもできるので、釣り人たちに人気の漁港であるのかもしらんが。
この写真を撮ってるあたしの後ろが剣崎の高台であり、向こう岸ももう高台。このようなリアス式海岸の浦としてなんというか「浦懐に抱かれた」とでも言いたくなるような港だ。
本当はここから海岸沿いに剣崎の磯まで道があるのだけれど、どうも封鎖中で丘上に迂回しろとある。んが、これ……あってんのかよ……(この時間でさらに道に迷ったら日が暮れてアウトの時間)。

あってました。程なく「剣崎」へ。「つるぎざき」ですな。正確な表記は「剱崎」かな。ま、ともかくここにも大蛇伝説があるのであります。ていうかこの光景を見た瞬間「なるほど」と思った(笑)。
この小山(夫婦が岩とも)には大蛇が棲んでいて、沖を通る船の行く手を遮り、時には転覆させたという。どうも海辺の蛇は船が通ると勝負しないわけにはゆかぬらしい。しかし、この「小山」そのものが大蛇のトグロに見立てられたのでしょうな。
そしてこの大蛇は「剣明神社」として祀られ、それ以降大蛇は見られなくなったという。『三浦半島 その風土と歴史を訪ねて』によると「現在、龍宮さまを祀った小祠があるが、これが剣明神社であろう」とある。ありましたねぇ(灯台の下あたり)。
ということで。三浦半島浦賀水道側に列をなす大蛇三頭の地を見て回ることができました。後は観音崎(走水の南側)と城ヶ島にも同じような話が。これはまた別でも良さそうなので、とりあえず「日本の竜蛇譚」のロケハンは成功と言えましょう。
で、実はこの剣崎には別に思いがけないところがあった。磯に降りて行く途中の藪の中に何やら説明書きがある。寄ってみてビックリ「矢の根井戸」なる為朝由来の井戸がここにあったそうなのだ(写真のコンクリで塞がれているところだろう)。
なんと伊豆大島に流された為朝がうつうつと鎌倉の方へ矢を射かけ、その矢が落ちたここに水が湧いたと言うのだ。まぁ、鎌倉幕府ができた時には為朝はもう切腹しているわけではあるが。それはともかく伊豆諸島から三浦半島へ為朝信仰は伝播していたのじゃないかということは考えられるだろう。
まったくこの井戸のことは知らなかったので、あまりのことに目が点である。為朝推しをしていたのは大正解!と言えばそうだが出来過ぎな感も。しかし、大蛇殺し為朝の矢がここに落ちたとは剣崎の大蛇もビックリ仰天だったでしょうな(笑)。
おまけで剣崎の灯台も。いやはや。すっかり夕日ですが、なんともギリギリだった。のんびりというのも好いですなぁ、とのんびりし過ぎだった(笑)。
灯台からは小山(夫婦が岩)の間から、ちょうど洲崎が見えることが確認できる。「そういう意味」でもここは重要なところであっただろう。
ちなみに昔は小山は島だった。今は磯伝いに渡れるが、この磯の隆起が起こったのは関東大震災の時だそうな。「龍学」の時間感覚から言ったらついこの間のことである。
そんな三浦半島でした。さらば夕焼けデーコン畑。またあう日まで。しかし何というかいい年こいたおっさんがこんなに充実した土曜日を過ごして良いものだろうか、バチ当たるんじゃないの?という勢いの一日でしたな(笑)。

補遺:

東相模行:横須賀・三浦 2012.02.04

惰竜抄: