鹿行行:鹿嶋

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2012.01.28

この日は旧暦初詣……というのは旧暦元旦に氏神さんに行ったのだけれど、何と言えば良いのだ。初神社巡りか。辰年の龍学初神社巡りでして、二年くらい前からどこ行こうかと思いめぐっておったのだけれど、この流れでは鹿島神宮以外あり得まい、ということで。えぇ。
未だ大神宮へ赴くなど門前払いと言うか神前払いと言うか……とにかく力不足であるのは衆目の一致するところ(?)であるのですが、またこれからも関係各所お騒がせ致しますとご挨拶がてら。「鹿行行:鹿嶋」であります。

そんなこんなで四時間くらい電車に揺られて八時台に華麗に鹿島神宮へ。電車でこわばった体をベキボキと伸ばしておお寒いとか、ちょっと前に地元西相模が地震で大騒ぎになっとるとは知る由もない呑気さ具合(TΔT)。
本社殿前の高房社であります(手前)。『古事記のものがたり』の宮崎みどりさん(twitter:@sungreenjapan)から教えていただいたように、鹿島神宮はまずこちら高房の女神に詣でた後、本社殿を参拝するのが古例に則る。
そして鹿島神宮様であります。江戸時代まで「神宮」の名を持つのは伊勢と香取とこの鹿島だけだった。先年は関係各所をお騒がせ致しました、今しばらくよろしくお願い致しますと深々と。
とは言ってもこれがもう節分の設えで記録写真を撮るには難な状況でしたのことよ。こういうのを神前払いというのだ。まだ早いはこの粗忽者が、ってなもんである。実はこの準備の為の人々が9時前だというのに結構おられて慌ただしい雰囲気なのだ。
そんな中でも小ネタ収集には余念のないあたし(笑)。「鹿島の事触」は今こうなっておるのだ。その名が残っている事を喜ぶべきなのか、かつての神官たちの旅を思って遠い目となるところなのか……
鹿島神宮は本腰入れてどうのこうのと話すにはまだ遠い存在なので、ぼちぼちなのだけれど、一点触れておきたいところが。最初の楼門の手前左に摂末社のまとめられているところがある。鳥居を潜ると写真のような。
各社祠が設えられているのだけれど、正面だけ何もなく「沼尾神社・坂戸神社の遥拝所」となっている。この二社は別格なのだ。そして、この日の神社巡りのメインテーマでもある。覚えておかれたい。
また、その左手の「津東西社(つのとうざいのやしろ・写真奥側)」も重要だ。高龗神・闇龗神を祀るとなっているが、実はこれは大船津から鹿島の大地への途中にあった「甕山」という小塚に祀られていた社なのだ(今はもう甕塚はない)。
今回大船津の方へは行かないのでその意味などはいずれ赴く際に述べるが、津東西社は鹿島の甕信仰のひとつであったのだ。
鹿島神宮奥へと。今は鹿さんたちはフェンスの中。このフェンスの手前にもう一柵あって、全く近づけない。人を見ても、もう餌もらえないのが分かっているのか全然興味なしという感じですな。
この鹿エリアの脇には「さざれ石」が置かれている。本参道からはちょっと隠れているので見過ごしがちであるかも。あたしが見てる間も皆通り過ぎていたし。
奥宮への参道脇の社叢はさすがの雰囲気だ。参道そのものが広く、きれいに整備されているので明るい雰囲気だが、往時は相当鬱蒼とした杜であったに相違ない。
そして鹿島神宮奥宮。先代の本殿でもある。武甕槌命荒魂を祀る。今は前にお土産屋さんもある普通に人が行けるところだが、本来はここは禁足地であっただろう。なんと言うか常陸だけでなく、陸奥・常陸編の最後に立つべき場所はここだ、と思った。
奥宮の前に一本の柱が立っていた。これが、中々……
「御百度標」とある。お百度参りをする再ここでUターンするのだろう。奥宮荒魂の社にお百度参りの設えとはね。
そして要石(てか、随分ときれいになっちゃってます)。ぶっちゃけこれは鹿島の甕信仰の甕が石に姿を変えたものだろう。「その処につぼといふ物のまことにおほきなるか、半すぎてうつもれてみえしを、先達の僧にたずねしかば、これは神代よりとどまれるつぼにて、今にのこれるよし申侍しこそ、身のけよたちておぼえはべりしか……」と藤原光俊の書き残した鹿島の甕が地鎮の石となったのである。
「よもや抜けじの要石」と『万葉集』にうたわれているとWikipediaにまで書いてあるが、『万葉集』にそんな歌はないのじゃないか。中近世に「甕」の意味するところが失われ、石で代替していったものだと思う。ま、これも話し出すと長くなるのでまたいずれ。
もっとも要石自体も水戸の御老公の伝説をはじめ、今や長い歴史を持つものとなった。香取や磯部稲村神社のように「対」で考えられている事も重要だ。
要石は多く甕信仰の持っていたモチーフを引継いでいる。そこを掘ればたくさんの信仰の残滓が見出されるだろう。
おまけ。奥宮の脇からかの要石への道が続いているが、途中にこんな像が。まー地震鯰というのも中近世の所産だろうが、実に膾炙しているイメージではあるだろう。どうしても鯰どんはコミカルになりますな。ムギュっ、と言うか(笑)。
さて、神宮の杜を抜けまして、ここからがこの日のテーマであります。小一時間程てくてく歩いて、明石という地区へ。「順番」が大事なので途中写真のような社叢もスルー(戻ってきます)。
随分立派な長屋門の農家。門としては現役ではないようだが。もともとこの鹿島神宮周辺はもっと広大に「神山・神杜」であったと思われるのだけれど(その跡をたどるのだけれど)、わりと近世にはもう一般の人々が里をひらいていたのかしら。

そして「東の一之鳥居」へ。鳥居の向こうは鹿島灘。周辺お社などなく、鳥居だけがぽつんと海を向いて立っているのだ。

……那賀の国造の管内の寒田以北の五里とを割いて、別に神の郡を置いた。そこにある天の大神の社と坂戸の社・沼尾の社と三社を合わせて総称して香島の天の大神ととなえる。それによって郡の名につけた。

『風土記』(平凡社ライブラリー)より引用

この香島の神は「明石からあがって後、神向寺より鹿島神宮の奥御手洗のところへ進まれたといわれている」「明石の浜に上陸され、沼尾を経て鹿島にいたったのであろう」などとされている(白水社『日本の神々11関東』)。
しかし、『風土記』の香島の記述は既に東北を睨んだ神郡としての香島となってあとの話であり、おそらくそれ以前、この鳥居は後の大洗磯前神社の神磯の鳥居のような信仰空間がこの明石の浜にあったことを意味するのだろうともあたしは考えている。

その明石の鳥居から香島の大神の鎮座までの足跡をたどるのだが、道筋に「息栖神社」が勧請されていた。これは知らなかった。その性格から見て大したわけもなくここに勧請されているとは考えにくい。
おそらく香島の大神の上陸と移動経路というストーリーにのる一社だろう。東国三社の一としての神栖市の息栖神社も、鹿島・香取の神の「出入り口の船戸の神」の性質を持っている。
あたしは東国三社の構成はおそらく香島の神祀りのうちに既にあった、と考えていおり、そのモチーフは大なり小なり周辺に再構成されていると見ているが、これもそれを示す一例かもしれない。
主筋とは多分関係ないが、息栖神社から道を挟んで道祖神さんが。なんともものすごい礫積みである。単体の人型というのも常陸ではこれまでほとんど見なかった。地蔵供養の場と共有されている様だったが、鹿島はこのへん独特なのかもしれない。
明石から南西へ進むと「神向寺」という地名となる。実際そのお寺もあるが、地名として庚申さんにも入っている。先の『日本の神々』はこれが神が向ったルートの意だろうというニュアンスで書かれている(ズバリそうだとは書いてないが)。
もっとも神向寺(写真)そのものの由緒には神宮の社地にあり、その本社の方を向いているのでそういうのだとあるわけだが。しかしこの西に坂戸の社があるわけではあり、大神の進んだ経路である事には相違あるまい。

神向寺からカシマスタジアムを眺めつつ、バイパスを渡ると「阿波神社」が鎮座されている。先にスルーした社叢がここだ。この阿波神社が何と猿田彦命を祀っている。
そして坂戸へ向う間の地を猿田というのだ。この地名も大神の渡御されたルートにちなむ地名だろうとされている。で、先にも出た息栖神社(の本社)には主神を猿田彦命とする文書があるというのだ(今の主祭神は岐神)。
阿波(徳島)の方では一宮・大麻比古神社が猿田彦大神を配祀しており、もとより関係が深いのだが、この一件は霞ヶ浦周辺における阿波忌部氏の役割を象徴的に示しているのじゃないだろうか。この鹿島・阿波神社は類書に指摘がないが、おそらく先からの話の枠組みに乗る一社のように思う。
ちなみに鹿島・阿波神社はカシマスタジアムの建設のために移動しているそうな。カシマスタジアムは明石の鳥居と坂戸の社をつなぐまさに線上に建設されたので、だとすると阿波神社はかつて線上にあった事になる。
ところでこの阿波神社にも道祖神さんの祠があった。やはり単体の人型像で、礫が敷き詰められている。はー、この土地はそういうもんなんですな、と思いつつ近よってビックリ。
これは……あたしには鰻をふん捕まえているの図にしか見えん。鰻の話があるのか、鹿島。ずっと南東の鹿島港に近い所の熊野神社に流れついた神鰻と鰻の禁忌の話があるのだが、神宮周辺にあるともなると俄然要注目だ。
なんか文章で表現しにくいので図にしてみた。要はこういう事である。この緑の範囲が本来の鹿島神宮の神域だったのだろう、と。この範囲の神社は軒並み「不詳」扱いなのだが、つまりは鹿島の摂末社だったと思うのだ。
そして、それらの少なくとも一部は「香島の天の大神の社」創建にまつわるストーリーをなぞって配置されていた……のではないかということなのだ。オレンジライン、上陸からの渡御の行程には確かにそれが見えるように思う。
この辺りは生半な神社であったら御神木ともなるような樹々が普通にのびている。なるほど香島の杜であったのか、という感想は歩いていると抱ける(まぁ、全体的には農村だが)。

スタジアムのあたりから臨海大洗鹿島線を越えると、大神の渡御を伝える地名と目される猿田であり、さらに西に進むと大神の最初の鎮座地であろうと先の『日本の神々』にある「坂戸神社」に着く。
神宮で見たようにここは別格であり、現在でも正規の境外摂社となっている。御祭神は天兒屋根命。しかし、『風土記』にもある坂戸の社ではあるが、その性格などはよく分からない。『日本の神々』では塞の神だろうとしている。
「坂戸」という地名が陸前・常陸・上総・武蔵・相模・越後に見え、つまりは当時ヤマトからエミシの地を睨んでの最終防衛ラインにつけられた名だろうと。これはまったくそのように思える。それが、那賀から五郡を引いて香島の神郡が設けられたときの意味づけだったのだろう。
この坂戸の社は東を向いている。おそらく明石の鳥居に対応するのだろうという推定に間違いはない。そして、これが本社殿が北面し、御神座は東面していると言われる神宮本社の結構の原型であるというのも間違いない。
しかし、神宮本社殿の北面がエミシの地を睨む結構だというのならば、東面の意味はまた別にある事になる。ここが、明石の鳥居から坂戸鎮座までのストーリーには香島神郡創立以前のこの地の神祀りが残存しているのではないか、というところなのだ。
多分、あの明石の鳥居はとてもシンプルでプリミティブな海の民の神祀りの残滓である。大洗神磯や伊豆白濱の海の鳥居と何ら違わない。そして、その奉斎氏族は間違いなく多氏だっただろう。大洗は香島の後の社である。それを実感するための舞台は、まだ残されている。
境内にはひょいと天保の手水石があったりするのだけれど、現状神社的にはどういうポジションなんかね。周辺は農村だけれど、鎮守という感じではないし。やはり神宮さんの飛び地、という感じなのかな。

ところで坂戸の社近辺には香島郡の最初の郡衙が置かれたのだろうとされる。それを伝えるような社がある。
坂戸社のほんの400m程西の「国土神社」だ。通りから回り込むように正面に向かい、なんとも神々しい日のあたる鳥居が。んが……ありゃ、まだお飾りが(笑)。
ここも『神社誌』では「由緒不詳。」と味も素っ気もない一行があるだけなのだが、お隣行方の郡衙近くの国神神社のようなところなのだろう。
今はこの系は皆大己貴命・大国主命を祭神とするが、もとはそれぞれの地の地主の神を祀る社だったのだろうと思われる。現在神宮は「国主神社」を東の宮中(地名)に境外摂社として祀るが、もとはこの国土神社だったのではないか。
ひょいと横手を見ると、やはり正月飾りが……もう小正月も過ぎたが、なんぞあるんかいな。それとも朽ちるに任せる流儀なのかしら。いずれにしても周辺の人もここが国つ神の社だという感覚があるのかしらね。
しかし寒いはずだよママン(TT)。もう昼だというのにこの氷。
ふと道行きに石祠。こんな大神の地に祀られることになった小さな神々はどんな気分なんかね。
あたしは『まんが日本昔ばなし』の「神さまの縁結び」に出てきたような神さまを石祠を見ると連想してしまうのだけれど。いやもうこのお話が大好きでね(笑)。

そしてさらに道行きに。なんとなぁ。股木の犬卒塔婆(普通は下写真の様)なのだろうが……こういうものを作って売っているのだろうか。そんなに需要があるのか。
またまたさらに道行きに。遠目に寒いから仏さんもなぁ、と見えて近よってビックリ。靴までが……
以前銚子の同じような例をPochipressさん(twitter:@pochipress)に教えていただいたが、これはもはや寒いからではないだろう。
道祖神さんへの草鞋の奉納はこちらの人の足の養生というだけでなく、あちらの人の足回りのために、という側面があるのではないかと以前言ったが、おそらくこれもそれを示す例だと思う。

猿田の方へ戻ってきまして「熊野神社」。ここも由緒不詳。伊弉諾命・伊弉冉命を祀るとだけしか分からない。神宮内にも熊野社が末社として祀られているが、対応する元宮かもしれない。
小さいが、境内はよく整えられており、石祠もきちんと祀られている。この祠の裏に丸石が転がっていたがなんだろね。力石というには小さかった。

ぐねぐねと農道をたどっていき、田谷というところの「笠貫神社」へ。あいかわらず由緒不詳なのだが、手置帆負命を祀る。讃岐忌部の祖神であり、訳もなく畑中に祀られる神ではない。
これも香島創設にまつわる忌部のなにがしかを伝える社なのではないかと思う。対応する社は神宮内には見えないが、あるいは鷲宮・祝詞社に集約されているのかもしれない。しかし「笠貫」とは何だろうねよもや「(か)さぬき」だったりして(笑)。
ちょうどこの笠貫神社の前方からこのあたりに残っている「杜」の様子をよく見える。多分こんな具合の杜が延々沼尾の水沼を取り囲んでいたのだろう。
この日回っている神宮北側の丘陵上は皆こんな具合だ。畑かさもなくば杜の残りである。まだ今年の農作業は始動していないので、まぁ、誰もいない。
おられても住んでいるところはまた別のようだ。先の笠貫さん近くで話を聞いてみても「住んどるのはここじゃないんでなぁ」と神社の名もご存じなかった。写真のような松を育てているのがよく目についた。お飾り用かね。
THE不思議カシマ。誰が何のために、誰のために?
そして向うは沼尾の社なのだけれど、その参道入口に。「神聖な区域です」か。周辺人目につかないので実は結構不法投棄とかがあるのだが、そのことだろうか。それとも沼尾の社の神威が現代にまで生きているのだろうか。

その社の南に郡家がある。また北には沼尾の池がある。古老がいうことには、「神の世に天から流れて来た水沼である」と。そこに生える蓮根は味わいが大変ちがっていて、甘いことは他所のものにはないところである。病いのある者がこの沼の蓮を食うと、早く治ること疑いがない。

『風土記』(平凡社ライブラリー)より引用

そのほとりに沼尾の社があった。今もある。しかしこれは……あたしのようなニブちんでも近づくのに気力がいる所だ。

これなら伝わるか。「沼尾神社」である。『日本の神々』では筑紫の甕を引き合いに、「沼尾の神は、甕依姫とも解せる」と述べている。折口先生のミツハの巫女を意識しての見解だろう。
沼尾の社は経津主神を祭神とするが、坂戸の神・香島の大神が荒ぶる神であり、それを鎮める為の巫女・女神が座す社であったのではないかと概ね考えられている。
それは香取神宮がまた斎主神を祭神とし、鹿島を鎮める役割を負っていたのではないか、という話にも通じる。あるいはこの日最初の参拝のような、本社殿の前に高房の女神に詣でる神宮の古式にもそれは見えるかもしれない。
いずれにしても去年繰り返された「鹿島の巫女たち」をめぐる話の核心がここだ。それは建葉槌の女神であり、手子后の女神である。また子安の女神であったり弟橘媛であったりもするかもしれない。しかし、鹿島の「水の女」の話をするのにはまだ少し、早い。

さらに西に鎮座される「塩釜神社」さんへ。ここまで来るともうかつての神宮摂社なのだかどうか微妙と言えば微妙だ。んが、今神宮に塩竈の神は祀られないが、祀られないということがあるだろうか。
鹿島は以北における問題の責任を負った社だった、はずだ。ひとたび事が起こればそのための神事が連打されただろう。塩竈の神は勧請されていたはずである。社地のつくりもこれまでたどって来た各社同様の境内社的な造りだった。
ま、塩釜さんも『神社誌』では輪をかけて素っ気なく「不詳」しか書いてないんだけどね(TT)。でも、今はなき沼尾の水沼(図参照)を取り囲むように分布する社は皆(近世勧請とかはともかく)、鹿島神宮摂末社だったと思うのだ。
そんなこんなで、その取り囲む社の西の方、金砂神社の方まで行こうと思っていたのだけれど、先の沼尾の社でHP全部持って行かれました、というテイタラク(笑)。「もう、あかん……」という事でここまでとしたのでした。
でもこれでも「これが鹿島だ」というのはちょっとは伝わったのじゃないかと思う。沼尾の女神にKO食らうというのもさい先良いと言えば良いしね(笑)。さらなる常陸行の礎となる一日ではあったでしょう。

補遺:

鹿行行:鹿嶋 2012.01.28

陸奥・常陸編: