黒髪山の大蛇退治

門部:日本の竜蛇:九州・沖縄:2012.02.03

場所:佐賀県武雄市
収録されているシリーズ:
『日本伝説大系13』(みずうみ書房):「黒髪山の大蛇退治」
『日本の伝説49 大分の伝説』(角川書店):「黒髪山の大蛇退治」
タグ:討伐される竜蛇/竜蛇の残す鱗


伝説の場所
ロード:Googleマップ

源為朝は七尺の大男で左腕が右腕よりも四寸も長かったという魁偉の武人。暴虐が過ぎ九州に追放されると鎮西八郎と呼ばれ僅か三年で九州を平らげ、王となってしまった。額面通りの年齢なら十代半ばのことである。

このような人並みはずれた存在を語り継ぐには人並みのものを前に立たせても伝わらない。為朝の前には強大な大蛇が現われることになる。英雄の誕生。そこでは竜蛇神を祖とする系と対になって竜蛇を討ち倒す強者の物語が語られる。これは洋の東西を問うことなくそうなのだ。

黒髪山の大蛇退治:
有田郷白川の池に大蛇が棲みついた。七俣の角を持ち、黒雲に乗って黒髪山に飛行し、火を吐くこの大蛇のため、命を失うものも出た。里人は稲を刈ることもできなくなり、領主の後藤助明に大蛇退治を懇願した。しかし助明が手勢を引き連れ向うと大蛇は姿をくらまし、退治できない。
助明が朝廷に相談すると、鎮西八郎為朝と協力するよう勅命が下った。為朝を交え策を練っていると、見なれぬ里人が美女を囮に大蛇を誘き寄せるが良かろうと申し出、姿を消した。これは神の啓示と喜んだ一同は囮の生贄となる美女を求め、恩賞は望みどおりとすると高札を出した。
西川澄町高瀬に万寿姫という十六歳の娘がいた。父・松尾弾正を亡くし、母と弟の小太郎を苦労して養っていた万寿姫は、この高札を見、お家再興のためと、自ら生贄となることを申し出た。そして白川の池には高さ十メートルもの水棚が造られ、万寿姫がその上に座した。
間もなく腥い風が吹き、大蛇が姿を現した。領主助明が三人張りの弓に十三束の矢を番え放つと、見事大蛇の眉間を捉え、血煙が舞った。しかしこれで大蛇は火の如く怒り、万寿姫をひと呑みにせんと立ち上がった。ここで続いて八郎為朝が八人張りの重藤の弓に一五束八寸口の矢を番え、放った。
この矢が大蛇の右眼を貫き、怯んだところを将兵が一斉に雨霰と射たてた。この猛攻撃にさしもの大蛇も遂に逃げ出すことになった。さらに助明らが追い立てると、竜門へと逃げる大蛇は谷底へ落ちていった。
ところで梅野村に海正坊という座頭がおり、ちょうどこの時竜門の谷を通りかかっていた。にわかに岩頭から転がり落ちて来た大蛇に海正坊は驚いたが、懐剣を引き抜き、ここが急所の喉であろうと突き立てた。これがとどめとなり、大蛇は死んだ。
生贄に名乗りを上げた万寿姫は高瀬の万寿観音として祭られ、弟小太郎は父の旧所領に高瀬を加え召し抱えられた。小太郎も松尾神社に合祀されている。(『武雄市史』下巻)

みずうみ書房『日本伝説大系13』より要約

黒髪神社上宮
黒髪神社上宮
リファレンス:九州森林管理局画像使用

細かなものも含めると『大系』だけでも六十話をこえる類話参考話がおさめられているので、ディティールの異同の広がりは推して量られたい。まず強調しておきたいのはこの話はあくまでも「鎮西八郎為朝の大蛇退治」が骨子だということである。

周辺資料的にまとめられたものだと引いた話のように地元領主・後藤助明が多く描かれたりしているのだが、実際の口承では、為朝が射った討った退治した、と語られている。また、この伝説に基づくとされる地名・遺称地がまわりにたくさんあるのだが、「為朝が野営したから〝幕頭〟」「為朝が射る時足をかけた〝足形石・足掛岩〟」「為朝が弓をかけた〝弓掛け松〟」「為朝が大蛇を退治して住み良くなったので〝住吉〟」「為朝が鱗を運ぶ途中牛が(力尽きて)首を突き込んだので〝牛の首〟」「為朝が討った大蛇を三分して焼いたので〝蛇焼谷〟」……などなど、大蛇伝説である共に為朝伝説なのである。この話が若くして九州の王となってしまったという為朝の人外の強力さを語ったものである、ということをまず覚えておきたい。

そこを踏まえた上で、類話の中から目につくものをいくつかあげておこう。

年中人間を襲っていた黒髪山の大蛇がいつも七まき半にとぐろを巻きつけていたのが、この天童岩である。また、黒髪山には、竜が住んでいたほら穴である竜門があったという話も残っている。(『波多の民話』)

みずうみ書房『日本伝説大系13』より引用

天童岩
天童岩
リファレンス:登山の記憶画像使用

黒髪山は為朝の時代以前よりの重要な信仰の地だった。天童岩は諾冉二柱がその子「天童」を遊ばせた岩ともいう。大蛇伝説でも大蛇が暴れるあまり黒髪権現の神殿まで破壊されそうになったので討伐を願い出る、としているものもある。

そういったわけで「黒髪神社」は上下宮があるが、特に大蛇を祀るということではない(一方で黒髪山の神はもともと竜神だとも言う)。しかし、下宮の秋の例祭では今でも為朝の大蛇退治に由来する流鏑馬が奉納される。

黒髪神社下宮の流鏑馬
黒髪神社下宮の流鏑馬
リファレンス:NEW!! まちなか『がばい』日記画像使用

為朝の大蛇退治の際、射られて川底に沈んだ大蛇を、盲の座頭海正坊がとどめをさし、水の中から死蛇を引き上げた。それにちなんで、川上の盲人は、皆脇差をさす。

みずうみ書房『日本伝説大系13』より引用

通話として引いたものもそうだが、多くの話で「とどめをさす座頭の海正坊」が出てくる。とってつけたようなのだがその話数からいうと標準形とも言える。そうなるとこの伝説を語り継いだのはこの地の盲目の法師たちだったのだろうか、と思える。

為朝が特定の神仏の加護によらず(一部八幡に祈願しているパタンもあるが)大蛇を討伐していることから、近隣どこかの寺社縁起とはなっておらず、また為朝の子孫が語り継いだなどということもなく、では誰が語り継いだのか、という点が微妙な話なのだが、海正坊はそこにかかわって来るのだろう。

為朝と後藤高宗の大蛇退治の際、家の復興を願った万寿姫が人身御供を志願した。九死に一生を得た万寿姫は、高宗公のはからいで壱岐の守の妻となり、弟小太郎は姓名と領地を賜った。その万寿姫を祀ったのが万寿観音である。

為朝の大蛇退治の際、万寿姫が人身御供に行く途中、万寿姫が鬢毛川に姿を写して身を整えた。

みずうみ書房『日本伝説大系13』より引用

一方でこの伝説はお家再興のため自ら人身御供にすすみ出た万寿姫をヒロインとする話でもある。武雄市西川登町(神六)高瀬には今でも万寿観音が祀られている。

「伝説紀行 万寿姫と大蛇」(webサイト「筑紫次郎の伝説紀行」)

さりげなく万寿姫も「大蛇に人身御供として差し出される姫」の系譜としてはやや異色である。傾いた家のために人身御供にすすみ出る・人買いに買われるというのは佐用姫をはじめ定番の話の型だが、その孝心と信心から神仏の加護があるものであり、豪傑の剛弓のみが救いをもたらすというのは珍しい。

このあたりにも「為朝の異能」を語ることに特化したこの伝説の特色があるだろう。その他にもより多くの地名やなにやとあるのだが、先に述べたようにディティールに踏み込むとキリがない話なので、ひとまずこのあたりにしておこう。

さて、この伝説で強調したいのはやはり「英雄の誕生」を竜蛇の討伐を通して語る話だ、という点である。神仏の由緒などに傾かず、大変純粋に「鎮西八郎為朝の大蛇退治」を語っているのだ。実は、これほど純粋でなくともあちこちで武将は大蛇を退治している。

何が言いたいのかというと「西洋のドラゴンは強大な屈服させる対象として語られ云々」というのは西洋に限った話ではないということだ。悪竜蛇の討伐をもって英雄が誕生する型というのは東洋の「多神教」の内にも十二分にあるのである。大体本邦最古の竜蛇譚は八岐大蛇の話なのだ。

王・英雄の誕生と竜蛇の関係には、竜蛇神を祖とする系と竜蛇を討伐する系が鏡の表裏のようにセットされている。「黒髪山の大蛇退治」はそこをおさえていくための象徴的な話となるだろう。

memo

源為朝
源為朝
レンタル:wikipedia画像使用

ところでこの鎮西八郎源為朝だが、伊豆・西相模をホームグラウンドとする私としては因縁浅からぬものがある。この後、保元の乱で崇徳上皇方について奮戦するも敗れた為朝は伊豆大島に流罪となる。そして、根っからの王気質なのか十年で伊豆諸島を統べる王様になってしまった。

この伊豆諸島の王為朝の反乱を恐れた朝廷により討伐に向わされたのが、おなじみ東伊豆の武士、伊東、北条、宇佐美の各氏である。時に西暦1170年。伊豆に流されていた頼朝も伊東の海辺から事の顛末を睨んでいただろう。いずれ、伊豆諸島に為朝の足跡を追う日も来るかと思う。

黒髪山の大蛇退治 2012.02.03

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