鵜黒の駒誕生

栃木県大田原市:旧黒羽町大輪

長谷田の溜池に、毛は鳥の羽根のようで、川を渡る事が自在な漆黒の名馬が生まれた。足に水かきでもあるのではないかと疑う者もある程水練が上手だった。この柵(砦・このことから鵜黒の柵と呼ばれる)の長谷田次郎はこの名馬を城主の那須資隆に献上した。

資隆は一日に千里走ったという中国八駿随一の名馬・驥(き)にも劣らぬ、と喜び、鵜黒の駒と名付けて大事に育てた。鵜黒も成馬となり、源平合戦の折には源義経のもとに参陣した十郎為隆と弟与一宗隆のうち、兄十郎に贈られ、両人は抜群の手柄を立てた。殊に、さらに兄より鵜黒を譲られた与一宗隆は、この駒に跨がり、屋島の海にて鏑矢を放ち、遠く海上の朱扇を射落とし、千古の武名をあげたのだった。

この鵜黒誕生については次のような伝説がある。鵜黒の柵には牧場があり、灌漑用の溜池があったが、ここの馬に里人が見蕩れる程の美しい馬がいた。そして、ここから流れる沢が那珂川に流れ込む辺に牛居渕という大きな渕があり、川鵜の生息地になっていた。

ある時、牛居渕から鵜の大王であろう、鷲のように大きな雄の鵜が牧場の溜池にやって来て、件の美しい馬の背にとまり、両者が仲睦まじくなるということがあった。そうして生れたのが鵜黒の駒だったのだ。土地の名「黒羽」はこの鵜黒から起こったという。

黒羽町『歴史的風土のなかの黒羽の民話』より要約


これは『那須記』にその記述のある伝説で、鵜黒の生れたのは承安元年(1171)三月十日のことであったという。すっかり整地されてはいるが、いまもこの伝説の溜池「駒込の池」はある。

東国には磨墨・池月をはじめ名馬の伝説が多いが、この鵜黒ほどに謎めいた話もまれだろう。なにせ父親が鵜である。鳥なのだ。広くこのような名馬は竜馬の雰囲気を纏うが、この話でその親となる竜蛇と鵜の近さということを考える事ができる。東隣りの常陸の竜馬伝説等と見比べられたい。

名馬里が渕の蛇
茨城県高萩市秋山:渕の蛇と馬との間に、半分馬で半分蛇という怪物が生まれる。

その鵜の王がいた牛居淵というのは、今はもうすっかり拓かれて田畑になってしまっている。この淵の名もいわくありげだが、『創垂可継』には牛鬼を思わせる怪牛がおったという伝説が記録されている。

大輪村の牛居淵のいわれ
栃木県大田原市:旧黒羽町大輪:牛居淵には昔大きな牛が住み作物を荒らしたのでその名がある。

鵜黒の伝説と怪牛がどう関係するのかというと、また別の話という感じだが、更にこの淵は一名「えな淵」とも呼ばれ、少し南東に行った岩谷観音近く(境内)にある湧水と底で通じている、などともいう。

何れも断片的な話で、それがどうしたのかというと良く分からないが、那珂川もすぐ下流には高黒の手箱岩の淵という竜宮伝説の淵があり、更にすぐ上流には那須氏の拠点高館下の高尾の淵というこれまた竜神が棲むという淵がある。その間の牛居淵も並ぶ存在であったのかもしれない。