鵜黒の駒誕生

『歴史的風土のなかの黒羽の民話』原文

瑞雲がたなびき小鳥が美しくさえずる暁に、世にも稀な名馬が誕生しました。この瑞兆はあたかも黒羽の発展を象徴するかのようでありました。
ここは那須資隆の居城高館に近い長谷田の駒込池であります。
つねの馬と異なり、姿は馬でありましたが、毛は鳥の羽根のようで、川を渡ることが自在で、さながら鵜が水で遊ぶようすに似ていました。足指の間に水かきでもあるのではないかと疑う者もあった程です。

鵜黒の柵(砦)に居た長谷田次郎は、この名馬を城主那須資隆に献上しました。
資隆は「河海を問うことなく、足が早く、一日に千里も走ったという中国八駿随一の名馬であった驥(き)にも劣らない世にも稀な名馬である。天下が乱れ、源平相剋のなかである。きっとこの馬が那須家の命運を開くであろう」とお喜びになり、鵜黒の駒と名付けられ、愛育に勤めましたので、りっぱな成馬になりました。
その後源頼朝が旗上げしたとき、那須家では十郎為隆と弟与一宗隆とが義経のもとに参陣しましたが、この鵜黒の駒は父資隆から為隆におくられました。両人は関東騎馬軍団のなかで抜群の手柄を立てました。
元暦二年如月、渺々金波をたたむ屋島潟で、与一宗隆は兄から譲られた鵜黒の駒を渚にうたせ、神明の加護を得て、鏑矢を放ち、遠く海上の朱扇を射落とし、千古の武名をあげました。 与一はこの輝かしい功績により五箇庄を賜り、鎌倉の御家人に列せられ、那須家の礎を築きました。

鵜黒の駒出生について馬と鵜との和合─婚姻という異類結婚にまつわるつぎのようなお話しがつたわっています。
むかし鵜黒の柵に牧場があり、野馬の群れがいました。今の長谷田の駒込池の辺りです。この池は長谷田川をせきとめて造った灌漑用の溜でありますが、ここに馬を追い込めて囲う放牧場があったそうです。そのなかに里人が見蕩れる程の美しい馬がいました。おそらく南部の駿馬の血をうけたものとみられます。
このころ駒込沢が那珂川に流れ込む辺りの牛居渕は川鵜の生息地になっていました。
ある日のことです。牛居渕から鷲のような大きな雄の鵜が、鵜群を従えて駒込池にやってきました。それは鵜の大王かも知れません。
この大きな鵜が美しい馬の背にとまり、愛情を囁きました。このことが再三繰り返されました。やがて仲良く、互いに睦み合うようになりました。この鵜の大王と美しい野飼の駿馬との愛が結ばれたのです。
『那須記』(大金重貞著)によりますと承安元年(一一七一)三月十日、あの美しい馬が子を生みました。この子馬は鵜黒の駒と名付けられました。

なお「黒羽」の地名考説の一つに「鵜黒」説があります。これは「鵜黒」を「羽黒」と読み、さらにこれを「黒羽」と読み替えた説であり、鵜黒の駒に乗って扇の的を射たと伝える那須与一の功績にあやかっての説とみられます。他説に「黒埴」説などがあることを申し添えておきます。

黒羽町『歴史的風土のなかの黒羽の民話』より