いけにえ淵

原文:静岡県富士市


いまから約四〇〇年ほど昔の天正時代のことです。

六月の陽ざしをあびて下総の国(今の千葉県)から修業のため京都に上る、七人連れの巫子(みこ)がありました。

早朝、三島の宿をたつたので疲れを覚えたのでしようか。

「ここで一ト休みしましよう」と、毘沙門天前の立場茶屋で一ト息入れていると、なんとなくあたりがざわめいています。吉原宿の東木戸が近いからかと思い、巫子の一人が茶屋のおかみさんに、
「この宿では何かあるのですか」
「はい、はい、今日は十二年ぶりの贄の淵の大祭りでな、問屋場の前で人身御供になる女の旅人をクジで決めるんでして──」
と七人の顔をみながら次のような話をしました。

沼川、和田川、潤井川が合流している三股淵は何十メートルもの深い淵になつており、昔から大蛇(おろち)が住んでいます。毎年六月二十八日の大祭日にお施餓鬼を催し、十二年毎に人身御供をやらないと大蛇の怒りにふれ、大難がくるというのです。

七人の巫子は話を聞くと顔色を変え、沼津宿まで引き返して、根方街道を廻つて京へ行こうかと相談をしていました。そこへ宿役人が入つてきて問屋場の前に連れて行かれ、クジを引かされました。七人は「どうぞ当りませんように……」とひとりひとりクジを引きました。そして七人目に一番年下のおあじが赤い丸のついたクジを引いてしまいました。

六人の巫子は翌朝、国元に知らせるため、下総国へ引き返していきましたが、柏原まできたとき
「おあじ一人を犠牲にして、おめおめ国元へ帰れない」
と、六人は柏原沼の七曲りに身を投げてしまいました。村人は遺体を一ヵ所に埋め、神として祀りました。現在の東田子浦駅前の六王子神社がそれだといわれています。

この頃、吉原湊の対岸前田に保寿寺という真言宗のお寺がありました。この寺に之源和尚という徳川家康とも親交のある高徳の僧がいました。和尚から人身御供の話を聞いた徳川家康は「毒蛇を封ぜよ」と厳命しました。

六月二十八日。之源和尚は百人の僧を集め、三股淵の西岸、水神森(現在の日本食品化工工場内)の近くで、龍蛇調伏を祈りました。和尚が精魂をかたむけ、声を張りあげて引導を渡すと淵の水が数十メートルの高さに逆巻きました。人々は耳をふさぎ、目をおおつて地に伏してしまいました。やがて淵が静まると和尚のかたわらに大蛇の鱗が落ちていました。

修法の力で命が助かつたおあじは六人のあとを追つて柏原までくると、六人はすでに死んでいることを知りました。おあじは悲しさのあまり柏原沼に身を投げてしまいました。のちに吉原宿のひとはおあじの霊をなぐさめるため、砂山の高台に阿字神社をたて、長く守護神として崇めました。

三股淵は現在貯木場がつくられており、昔の面影をしのぶことは出来ません。

「広報ふじ」(昭和42年010号)より

追記