信州高遠大蛇を斬害す

長野県伊那市


保科肥後守殿のころ、蓑輪の大茅原に大蛇が蟠居しているとの話があり、鷹匠井深九郎兵衛に討伐の命が下った。九郎が草むら深く分け入ると、大蛇が眠り込んでおり、その鼾は臼をひくようであったが、難なくその首を打ち落とすことができた。

ところが、首を失った胴が地震のごとき響きをたてて動き回り、切り口よりは白き気が立ち、一天俄かにかき曇り大雷雨となった。九郎もすわ身の大事と急ぎ立ちかえり、小沢の坂を下るが、大蛇の胴は一散に追って来るのだった。

九郎はここに踏みとどまり、刀を持って大蛇の胴を斬り倒したが、自分自身も一度は絶死したという。その後、集まった人々に連れ帰られ、百日ほど病んだが快気した。雨は三日降り続き、信州一国は洪水にて所々損亡したという。(『新著聞集 勇烈篇 第七』)

『伊那市史 現代編』より要約

追記

引いた文は『新著聞集』からの要約だが、その梗概と補足もある『伊那市史 現代編』からとった。市史にはまた大泉耕地近くにこの蛇を埋めた蛇塚があったとあり、蛇抜洞の地名もあったとある。

大茅原は伊那市西箕輪大萱あたり。天竜川に流れ入る大清水川をさかのぼった先になる。市史にもあるが、ここから天竜川をさかのぼって箕輪町と辰野町との境あたりの「漆戸の淵」にも大蛇討伐の話があった。

これが二話とも天正年間のことといい、時期的に一致している。さらに天竜川を下って下伊那は喬木村のほうへ行くと、岩見重太郎が大蛇を討伐しているが、重太郎の怪物退治の時期も天正の頃のことと思われ、一致しているなど、興味深いつながりが垣間見える。

しかし、今はそのあたりの詳細はさて置き、近現代の世間話によくある、大蛇が大いびきをかいている話(「蛇のいびき」など)の古典史料に見る一例として引いた。『新著聞集』であるから、遅くとも近世の中ごろには大蛇は大いびきをかいていたことになる。