下谷弁天物語

原文:神奈川県愛甲郡愛川町


漁の好きな源爺(上熊坂、熊坂政五郎氏祖父源重郎)は、今日も、小柄な身体に長い手製のサクリ(友釣り)竿を担いで、下の川(中津川)へ鮎釣りに出かけた。

あいにく大水の後であるせいか、腕に自信の源爺でも、今日のカカリはさつぱりであつた。腰のキセルを取出して、一服つけていると、薄濁りの水の中に、丸い異様なものが目に止つた。足中草履で探りながら引上げてみると、二〇cmほどの丸さで、蛇がとぐろを巻いた石の像である。うす気味悪いと思つたが、かと言つて再び水の中に投げ捨ててしまうのも気色が悪い。縁起が良いんだか悪いんだか、漁は早仕舞いにして、石像を抱えて引上げることにした。

家に持ち帰つてはみたものの、威勢のいい妻君のおキン婆も、流石に蛇は苦手であつた。源爺の南隣りには、隠居の身のおカネ婆が、飴菓子などを商つて、独り暮らしをしていた。(下谷、杉山藤吉氏の曾祖母)長月寺の観音講先達で、信心家の、おカネ婆に見せると、「こりやあ弁天様じやあねえか、気味が悪いんだつたら、わしに譲って欲しい。」と言う。源爺にとつては、願つたり叶つたりである。おカネ婆にしてみれば、蛇よりも弁財天が目的であつた。引継ぎは勿論成立する。其の晩、源爺はおキン婆を相手に、久し振りにゆつくりと、晩酌にありつけた。

一方、おカネ婆は、床の間に祭壇をしつらえて、弁天様をお祀りした。弁財の霊験は大分あらたかであつたらしい。

その後、気丈なおカネ婆も、寄る歳波には勝てず、下谷の家へ戻つて、孫の世話を受けることになつた。久し振りの部落入りである。近所最寄りのお世話にもなることだから、何とか義理を果したいと考えた。しばらく崖上で暮していたおカネ婆は、大水のたんびに苦労してきている。下谷の人たちの気持を知つていた。たまたま土手が改修されたばかりでもあり、かつてそこが切れて、何軒か流された悲惨な思い出も加わつて、土手の火の見下へ、弁天様の祠を造つて、部落に寄附したいと申し入れた。

部落の人たちも喜んでくれた。土手の竣工と社祠の落慶を併せて、お祝いの祭りをすることも決つたここでも弁財の霊験はあらたかであつた。寄附金が集り過ぎて、林の人形一座をたのんだり、田名のきれいどころをよぶほどであつたと言う。大正時代の話である。

それから半世紀、弁天様のご神体は、ある日、ある事の為に、ある人によつて、再び中津川へ帰されてしまつた。そして、今は祠だけが無慙な姿をさらして残されているのみである。清いせせらぎの中津川も、公害の一つに挙げられるほど変ぼうした。そればかりではない。田甫から米麦を穫るのではなくして砂利を採るため、川の流れを山の手に人工移動させ、弁天様の祠附近は、宅地に造成される計画が樹てられているとか。

祠が無くなつてしまつたとしても、せめてもの慰めは、下谷で大水の心配をしないでも済むようになることであらう。これこそ弁天様のお加護であつたと信じたい。

『愛川町の小祠・小堂 ─中津地区─』
愛川町文化財保護委員会
(愛川町教育委員会)より

追記