おしゃもじさま

原文:神奈川県愛甲郡愛川町


愛甲郡中津村の大部分は高燥な洪積台地である。このため昔から養蚕が農家の重要な産業であった。従って蚕の豊凶は直ちに農家の生計に影響することとして蚕への身の入れ方は尋常ではなかった。この養蚕をするための蚕室は専用のを持つ家といえば養蚕家の一%にも足らないので大概は住宅兼用蚕室であった。だから家屋は一般に大きく、屋根は急傾斜で麦稈葺であり、そして棟の頂は普通杉皮で包みそのうえに鳶尾科の「いちはつ」を植えていた。五月ともなると空の紺碧に、うなる赤い「たこ」とこの棟上の「いちはつ」の紫花のコントラストは懐しく偲ばれる。

この頃の養蚕の仕方は主として天井の簀の子張りに藁菰を敷きここに平飼をした、この天井うえが大きい家になると三段になっていた。広い台所の上を「中二階」(ちうにかい)座敷と奥の上を「大逗子」(おゝづし)さらにこの上を「三階」(さんがい)といっていた。この屋根裏は比較的暖かで高位置のため乾燥するから平飼の絶好の場所であった。そして多くの家は南向きだから東と西の破風から入る光線によって給桑その他の手入れをしたのである。給桑の時など平飼の蚕座の中に片足が乗る位の飛び木を置いてここから挫桑した桑葉を撒布する巧妙な手さばきは美事なものであった。明治三十六、七年頃からこの飼方も下火になってこの頃から座敷や奥を仕切って蚕室としてここで飼い始められた。そしてこの蚕室の換気をよくするため大棟の「いちはつ」は取り除かれここに小窓の気抜きを持つ箱棟(はこむね)に変って来たこの様式は現在この地方に残っている。

話はこの屋根裏での平飼いの時代に遡のぼる。仕切した室でない屋根裏の天井だから遠慮なく鼡族が襲来して蚕を食い荒したもので多い時は一夜に一米平方も食われてしまうことが間々あるのでたまらない。このため養蚕家は鼡を恐ること大変なものであった。勿論当時は猫リンなどはなかったしそうかといって猫を天井に置くこともならない。これは平飼の所を猫に踏まれては却って大変であるからであった。

ひるがえって北相の水田の少ないこの村の唯一のまとまった水田地帯は俗に川入耕地といってここには六十余町歩からの水田がある。但し内三十五町許りは隣村域である。

この耕地の中央に「おしゃもじさま」という石の小祠がある。何時頃から建ったものかわからない。多分元禄以後であろう。建立者は半縄村、矢後杢左ヱ門とのみ刻ざまれる。

「しゃもじ」は俚言で「しゃくし」の意である。そして以前は何時も「味噌汁用の木製の杓子」が祠前にうず高くあがっていた。蚕に鼡害の徴があると早速この「しゃもじ」を拝借して来て屋根裏──ここを方言、屋腹(やばら)という──に挿して置く。そうすると鼡の出る時刻になるとこの屋腹を恐しい摩擦音がし燐光さえ見える。おしゃもじさまが大蛇(うわばみ)となっておいでなさって鼡を追って下さると信じられていた。

そして偉大なあらたかな功徳があり用がなくなると御礼に新しい「しゃもじ」を添えてお返しするというのであった。その他、蚕の時ばかりでなく鼡害があると何時でもおしゃもじさまの御厄介になったのだ。 時代は過ぎ相変らず「おしゃもじ」の呼び名は残るし、数時の耕地整理にも壊されもせず一坪余りの祠地の上の神木「いぬづけ」の根元に取り残されているが向題の「おしゃもじ」はあがっていないが、水田の時節ともなると飲みさしの渋茶が献ぜられているのは愉快である。(中村昌治)

『民俗』(第一号・相模民俗学会)より

追記