おしゃもじさま

神奈川県愛甲郡愛川町


中津は高燥な洪積台地で、養蚕が重要だった。その飼い方も高い屋根の屋根裏から、座敷などを仕切るように変わってきたが、まだ屋根裏に蚕室を持っていた頃のこと。仕切りもないので鼡族が襲来し、蚕を食い荒らすので、養蚕家は鼡を恐れること大であった。

村には川入耕地という唯一のまとまった水田地帯があったが、この耕地の中央に「おしゃもじさま」という石の小祠がある。元禄以降のものだろうが、建立者は半縄村、矢後杢左ヱ門とのみ刻ざまれる。昔は、祠前に味噌汁用の木製の杓子がうず高く積まれていた。

それで、蚕に鼡の害があると、このしゃもじを借りてきて、屋根裏(俚言に屋腹という)に挿した。すると、鼡の出る時刻になると、この屋腹で恐ろしい摩擦音がし燐光さえ見える。おしゃもじさまが大蛇(うわばみ)となっておいでなさって鼡を追って下さると信じられていた。

そして功徳があり用がすむと、お礼に新しいしゃもじを添えてお返しした。蚕のときばかりでなく、鼡害にはいつもおしゃもじさまのご厄介になった。時代は過ぎ、耕地整理も行われたが、今も神木「いぬづけ」の根元に祠はある。(中村昌治)

『民俗』(第一号・相模民俗学会)より要約

追記

話のおしゃもじさまは昭和四十六年にはまだあったようだが、現状は不明。中津地内の坂本あたりとなるようだ。愛川町文化財調査報告書 第六集『愛川の小祠・小堂 中津地区』(愛川町教育委員会)に見えるが、そちらにも「おしゃもじさまの本姿は大蛇だったと故老から聞いたことがある」とある。

また、そもそもは一帯の水田の中央にあって、検地の縄を埋めたところではないかといい、すなわち社宮司であったこともうかがわれる。これを蛇だとはっきりいい、養蚕守護だとする珍しい例だと言えよう(周辺でもやはり、咳の神であることが専らである)。

県下では、鎌倉や横浜に蛇だという社宮司があるが(「琵琶橋と蛇骨神社(部分)」など)、その蛇が蚕から鼠を追ったとは聞かない。北に目を転じても、今のところ類例は見えない。