仙人台の大蛇
原文:神奈川県足柄下郡箱根町
むかし村の豆腐屋にトラという名のおばあさんがいました。
気さくで働き者のおばあさんは、早朝から一日分の豆腐屋あぶらげをこしらえてしまいます。お相手はもちろん銀じいさんです。
仕事が終わると店はお嫁さんに任せてのんびり過ごし、午後は風呂をわかしたり、原料の大豆を煮る薪をとりに山へ出かけます。
ある夏のことでした。おばあさんはただ一人ヤセ馬を背に里から五丁(五〇〇メートル余)ほど離れた仙人台の奥山に向かいました。
そこはところどころに湧き水があり、傾斜がきつい上に樹木がうっそうと繁っているので、太陽の光が遮られて薄暗く、なんとなく不気味でした。
里に近い場所は村人がよく来るので枯れ木が少ないのですが、この辺だとあちこちに枯れ枝が目につきます。おばあさんは懸命にナタをふるい、枯れ枝を落として手頃の長さに切り揃えて束ねました。
もう一束こしらえたら帰ろうと、谷寄りの太い松の木が横たわっているのをよい足場とばかり、片足を掛けました。
と、グニャリと弾力があって、まるでゴムのタイヤに乗ったような感触なのです。変だなあ、と思っているうちにその松の木がゆっくり動き始めたのです。
びっくりしてやや右側に目をやると、二間(四メートル弱)程先にカマ首をもち上げた大蛇が、赤い舌をペロペロ出し入れしているではありませんか。
蒼白となったおばあさんはやにわに大蛇の胴体から飛び下り、無我夢中で山をすっとび下りようとしたのですが、腰が抜けてしまって歩けないのをほとんど転がるようにして下りました。
幸いにもゴミ屋(大八車をひいてあちこちのゴミを集めて焼却する職業)のおじさんがいて「どうしたんや」とたずねたのですが、おそれおののいたまま声が出ないのです。ただ真っ青な顔のままブルブル震え、右手で山の奥を指しているばかりです。
おじさんは何が起こったのかさっぱり分からず、それでも豆腐屋のおばあさんと知っていたので、背負って家まで送り届けました。
家に着いても歩けず、口をきくこともかなわぬままぐったり寝込んでしまったのでした。
あくる日家人がどんな目に合ったのか聞いたところ、一斗樽のような太い大蛇の毒気にあてられ口が動かなくなってしまった、と消えてしまいそうな小声でそっともらしたそうです。
そんなバカな、と家族の者が口を揃えると、誰が何と言おうとあたしゃ大蛇の背中に乗ったのじゃ、と真顔で答え、そのまま四、五日というもの、飯も食わずに寝たきりでした。
村人は大昔の尾平台(大平台)の大蛇は死んだというが、その子か孫が住んでいるんだと、それ以来というもの、仙人台の山奥に近寄る人はいなくなったそうです。(安藤エイ氏談)
『箱根昔がたり II』安藤正平・澤田安蔵
(かなしん出版)より