郷土の伝承大蛇物語・部分

原文:神奈川県南足柄市


(前略)

明治二十七年と云えば、現在の中国、往時の清国と、日本が戦争をした年である。その頃に、猿山部落(現在の広町)の上に、三ッ木山という山がある。杉の良材が育つ山であるが、一段歩(九九〇平方米)の地域に、一本の、杉の大木があった。伐採後に、一の枝から、尺板がとれたというのであるから、如何に大木であったか想像がつく。この杉は、雲をつき、天下を睥睨し、木の王者の風格を有して、里人は、天狗の木と、呼んでおった。この木の持主は、この杉を売却することになり、何人かの人が、手金を出しては鋸を入れるが手を引き、最後は、和田河原の、材木商の、生沼新五郎さん(故人)が買うことになった。生沼さんは早速、下見に行き、〆縄を、木にはりめぐらし、半紙を出し、矢立で、
 神の地で、神の木ならば、神もある
 民の地の木に、神もあるまい
と、書きて、〆縄につけて家路についた。その翌日に、生沼さんは、弟の、月村常太郎さん(故人)に、伐採を依頼して、二人で伐採にとりかかった。準備として最初に、杉の周辺の雑草刈をなして、一箇所に集めて火をつけながら、附近に誰人もおらないのに、
「さあー お前ら、今日はこの木をきるから、怪我をすると、いけないから、早く 子供を連れて逃げろ」
と、大きな声でさけんだ。火は燃えあがった瞬間に、風しもの茅の中から、真黒な、径六寸五分位(二十糎)で、一升徳利位の太さで、長さ七尺位(二・一米)もある、大きな蛇が、一直線に風上に、向って走り出し、西方の茅の中に消え去った。五尺(一・五米)もある等身大の茅が、野分けの如く、左右に分れて、巾二尺(六十糎)余りの、茅の折れた一条の道が、出来たのには、二人とも驚き、心臓の高鳴りと共に、以後在世中の、語り話であった。

前記の大杉の伐採から四十年程経過して、昭和十二年頃で、日支事勃発後で、外国から木材輸入が途絶し、道了山の杉の大木を、京都の材木商が買いて、伐採及び搬出作業の下準備のときであった。買主と、伐採作業の現場主任に、搬出作業を請負いた地元の、柏木源治さんの三名が、実地踏査を行った。場所は、当時の浦山の奥の民家附近の北側に面した山で、伐採する予定の松の大木を、見乍ら登り行くと、左前方から、右手方向に、三人の目前を横切る、大蛇を、間隔二米足らず、で見たのであった。真黒な、胴廻り、三尺(九〇糎)、鱗の直径一寸(三糎)位、長さ八尺(二・四米)位で、二本の大きな黒い髭を、はやして、突然、絵に描かれた龍の前足二本だけがなきもので、王者の貫禄を示して、悠然と、下木の、あお木や雑草を、右左に倒して、通過せし跡は、巾三尺位(一米)の、通りやすい道が、一瞬にして、出来てしまった感じであった。柏木源治さんは、三人だったから驚かないが、一人であったら、悲鳴もあげたり、おっけやみ病にとりつかれたかも知れない。まだ若くて二十一才頃で、世帯を持つ前だったと、当時を、思い浮べて、語られた。

柏木さんが見て、十三年程過ぎて、昭和二十五年頃の十月下旬だった。猟期で、矢倉沢関場の南側で、右岸側の山林に踏入った矢後誠一さんは、銃をかまえて雑木林の中を、此処彼処と、獲物をあさっておった。突然、目の前二間(三・六米)前方の雑木の幹から枝へと、長が長がと、からみつく、青大将の、長さ七尺(二・一米)位、胴廻り尺五寸(四十五糎)位を見た、手にしておる猟銃を砲発する気持には、なれなかったと、話しておられた。青大将を見て、幾日か過ぎて、再度その山へ猟に踏み入った。今度は、遭遇しなかったが、蛇の、抜けがらを、発見した。胴廻りは、尺三寸(三十九糎)もあって自宅に持ちかえりしまっておいたが何時しか紛失して、現在は所持しておられない旨を、追加された。

(後略)

大滝正「郷土の伝承大蛇物語」より部分

『史談足柄 第13集』(足柄史談会)より

追記