長泉院来由記・部分

原文:神奈川県南足柄市


(前略)

其後長者も子孫絶果、しる人まれなり、此長者が住し所を板矢か窪とて、則当山辰巳に当て八町余隔、今に残れり、是当山十二旧跡の六ツなり、然るに其後八拾余年の歳霜つもつて、当往昔の深山のことし、爰に足利将軍尊氏公の御代とかや、大森彦七といふ侍あり、当深山に猟せんとて来りしが、麓よりすこしわけ登る比、忽山中震動して黒雲山を覆ひ、大雨しきりにそそひて大龍顕れ出、火焔をふきかけ、彦七を一口と飛掛る、大森彦七心得たりと太刀ぬき持て、切はらいはらいわけ登る、太刀もゆがミたりけれハ、此太刀鈍とて沢に捨て、さしそへをぬき切て掛る、大龍此勇気にうばわれ、山奥ふかくかけ入て行方知らす、黒雲のミ亡々たり、只山中闇夜のことく去とも鳴動止事なし、此龍の出たる所を龍門橋と号て今にあり、是当山十二旧跡の七ツなり、其太刀を捨たる所を鈍平沢とて、則龍門橋の側なり、是又当山十二旧跡の八ツなり、大森彦七の捨たる太刀をたつさへて、麓に下りて川水に洗ひ、石につき立しが、石を切事いとやすく、彦七太刀ハ名剣なりと思ふに付、扨は当山の守護神ありて、龍をして殺生を制し給へるならんと、さしもの彦七凝(疑)晴て恐れ謹奉る、其川を太刀洗川とて即龍門橋の流たり、是当山十二旧跡の九ツなり、其太刀をつき立たる所を太刀塚とて、今当院の末寺長円寺の側にあり、是当山七不思議の三ツなり、故に此所を塚原村と号、其太刀今に彼長円寺の重宝たり、

(後略)

「長泉院来由記」(年未詳)

※長泉院の由来を記したものであるが、「上」は長泉院建立以前の話である。この地に蟄居していた板矢長者が観世音菩薩の利益により悪犬を退治する話、大森彦七という武士が、山中で大龍と出会い、大格闘となり彦七の太刀がゆがんだという話などを記している。「下」では玉が峰の守護である黄色大権現の化身と、霊場建立を約束した太寧和尚が老齢のため、その弟子素山和尚が、大森寄栖庵に願出て霊場を建立したが、素山が守護神と鎮守を間違えて祀ったので、化身の小言を蒙り、祀り直したのが、今の玉が峰の金毘羅と岩原の八幡宮神社であったことなどが記されている。

『南足柄市史8 別編 寺社文化財』
(南足柄市)より

追記