大蛇後日談

原文:神奈川県海老名市


大蛇がいなくなってから中藪は枯れてしまったが、沖田の沼地もだんだんに干上がって、天保末期には源六沼も姿を消してしまった。

水の無くなった源六沼では、鯰がたくさん捕れたが大きいものはたらいの中を一回りする程あったというから一メートル以上あったのだろう。捕った鯰はどこの家でも焼いて保存し、食糧にしたので、連年の飢饉であったにもかかわらず、元気で働けたというからよい栄養だったにちがいない。

それから何年かの後、法力で大蛇を本堂の床下に封じ込めた高僧は自分の死期を予知して、亡きあとのことを考え、大蛇に懇々と諭して呪縛を解き、有鹿神社裏の堤防へ移らせた。

その当時、この辺りは有鹿神社の神域に続いて老樹古木が生い繁った幽玄の地だったが、それからは相模川の本勢がここから離れず青黒い流れが渦巻いて蛇籠を噛み堤防を洗って、身のすくむような妖気が漂い、怖れて近づく者は無かったが、上流から玉石を運んできた石舟がここで動けなくなったり、筏がばらばらに崩れることなどもあって、船頭や筏師の間では相模川の難所とされ、主が住む魔の流れとも言われた。

横須賀水道の架橋で海軍省が威信をかけて、この難所に敢えて橋脚を建てることにしたが、予期もしない度重なる洪水で資材も足場も何度となく流失した。この有鹿神社裏の橋脚工事は、大谷の六つ沼地区の埋め立て工事とともに横須賀水道の二大難工事と言われたが、この橋脚一基のために架橋完成のめどが立たず、責任者は度々海軍省に呼びつけられて厳しい督促を受けた。

大蛇をここへ移動させた高僧はすでに他界して久しく、過去の事情を知る者は無かったが、度重なる異常な事態や不思議な現象に、理外の理ともいうべきものの存在に気付いた責任者は神官による修祓を度々行い、現場でも組毎に護摩を焚くなどして障害を調伏し、工事の一日も早い完成を願った。

海軍省も工事現場もあせりにあせり、悩みに悩んだが工事は一向に捗らず、見通しは立たなかったが、紅葉の美しい秋たけなわのある夜、台風の時期でもないのに天候が急変し篠つく雨に相模川が一気に増水した。

この地に生まれ育った老人たちも例のないことだと天候の異変に驚き、堤防の決壊をおそれた上郷河原口では半鐘を打ち鳴らし、消防団員が総出で警戒に当たったが、夜明けと共に雨がやみ、水量も急速に減って夜来の暴風雨が嘘のような晴天になった。同時にそれまで立ちこめていた魔性の洞窟にでもいるような重苦しい妖気が全く消滅して有鹿の森共々急に明るくなった。

それからは橋脚工事も順調に捗り、間もなく美しい鉄橋が開通した。その後は、難所とされ主がいると怖れられたこの場所が、水道橋下と呼んで親しまれるよい釣り場となった。流れを支配して怖れられていた主の大蛇も時代の流れには勝てず、移動してしまったのだろう。度重った水道橋工事の異変と世にも不思議な主の話は、今でも地元の老人たちの間では話題になる。

三島神社の大蛇が焼けたのは、文政四年(一八二一)の六月だが、これは旧暦であるから現在の太陽暦に直すと約一カ月遅れの七月のことになる。

文化十年(一八一三)生まれの曾祖父利衛門が数え年九歳の時だったというが、筆まめだった曾祖父は沖田の大蛇のことなど具体的に記述しておくが、社家の大蛇についても詳述している。

八十五歳で他界するまでに書き残した文書には、聞いたこと見たこと、直接経験したことばかりでなく世の中のさまざまな出来事や時代の移り変りなどについても克明に記してあるが、その中に江戸末期になってからの身近な大蛇の話がある。

大谷の田んぼの中央に天神森という場所があって、昔は大きな森だったと言われているが、柴(注)の大木が残っていて、中が空洞だったので大きな蛇が住んでいた。直接見たという人の話では、八寸土管(直径二十四センチ)位の太さだったというから見たら腰をぬかす程の大蛇である。

田植えや草取りの時期に、日暮れになって近くを通ると枝にからみついて夕涼みをしているその鱗がぬめぬめと光って怖ろしいので、近くで仕事をする人たちはみんな日の高いうちに早目に仕事を切り上げて帰宅した。

すぐ傍に中新田に通じる大縄があって通る人が多かったが、からみついている大蛇の鱗が木の葉越しに光って見えると「若い衆(わかいし)が出ている」といって、みんな引き返してしまった。若い衆とは古木の洞に住む大蛇の通称だった。

この柴の古木は、安政三年の大風で倒れてしまったが、根元の部分が作り酒屋の仕込み桶のように大きく残っていた。腐り残った部分が昭和初期に始まった耕地整理の頃まであったが、現在はその場所だけが申し訳程度に保存してある。

大蛇がその後どうなったかは不明だが、何時の間にか姿を消してしまったらしい。やはり時代の波に追われて移動してしまったのだろう。

(注)柴の木……高樹性の常緑闊葉樹で学名はまてばしいという。柴はこの土地だけの通称である。春楡をナンジャモンジャの樹と呼ぶようなものである。

(小島直司)

『海老名むかしばなし 第9集』
(海老名市秘書広報課)より

追記