私の泳いだ彦六ダブ

原文:神奈川県海老名市


よく考えてみると、私の家は彦六ダブに深い関係があるように思われる。

今、ダブの欠け残りと思われる土地がダブの続きに家の土地が十八歩残っている。今はないけれども、堤防の外にも竹やぶがあって家のやぶだというので煤竹や門松の竹を切りに行ったことを覚えている。

ダブの大きさは一反五畝を丸くしたくらいのもので、いつもまんまんと水を湛え、深さは一番深いところで三メートルくらいあったと思う。父に叱られても叱られてもよく泳いだものだ。

子供の頃、こんなことがあったのを覚えている。相模川の鯉が卵を産みに来たのであろう。緋鯉、み鯉など大群が押し寄せて来たことがあった。家の向かいに高橋松太郎という古老がおられ、小舟にのって投網で追い回し、たくさん取られたのを見物したことも忘れられない。網を打つたびに一メートル近い鯉が網を破って飛び上がるのを見たが、それはそれはすごい光景であった。

彦六という名前の由来は、彦さんという人と六さんという人の名前からきている。彦さんが煤竹を切りに行って、鉈をダブに落としてしまった。鉈を取ろうとして溺れてしまった。そのとき釣りに来ていた六さんという人が助けに入って、彦さんとともに溺れてしまった。これから彦六の名ができたのである。

そして、この彦さんは私の家の祖先の一人だったような気がしてならない。私の兄に彦八という者がいるが、この彦八は溺れた彦さんの名をもらったように思われる。

そのダブが跡形もなく畑や住宅に変わってしまった。このすごいダブがなくなったのにはいろいろ理由はあるが、第一には鳩川の河川改修、第二には明治四十年頃の大泥土流のために一気に埋まったことであろう。

この稿を終わるに当たって、一句。

 緋の鯉の渦友禅の如燃ゆる

(伊波菊次郎)

『えびなの歴史』第4号
海老名市史編集委員会
(海老名市企画部市史編さん室)より

追記