勝坂の有鹿谷の霊石

原文:神奈川県海老名市


稲作りは水がなければできないが、その水もきれいな水でなければよい米はとれないので、稲作農民にとって水源の確保は昔から死活問題であった。

有鹿郷五か村といわれた上郷、河原口、中新田、社家、中野の農業用水はその水源が旧磯部村(相模原市)勝坂にあり、鳩川用水のもとである。

天正三年(一五七五年)神霊が、総持院住職慶雄の夢枕に立って、
「よい水源地を教えるから、明朝境内から飛び立つ白鳥のあとを追え」
と指示された。この鳥は白い烏であったとも、金色の鳥であったともいわれているが、慶雄を北へ北へと導いて、磯部村勝坂という集落で姿を消した。そこには洞窟があり、清水が滾々とわき出ていたのでここを有鹿谷と名づけ、有鹿郷五か村の水源とした。

それからは毎年四月八日の祭礼には、有鹿神社の御輿がこの有鹿谷まで行き、ご神体を洞窟に安置して帰り、六月十四日に帰座することがしきたりとなり、この神事は「有鹿様の水もらい」と呼ばれて、有鹿神社の氏子と共に以下四か村の代表が従って送迎することになっていた。用水の必要な時期の、水田地区の水利権の確保を、古くから権威ある有鹿神社の神霊に託したものであろう。

地元勝坂の古老の話ではご神体はきれいな玉石だが、ふしぎなことに、子供たちがいたずらにそれを動かすと、いつの間にか必ず元の位置に戻っていたということである。

こんなことをたびたび繰り返していた神事に関係の深い某家のいたずら小僧が、
「こうしたらどうなるだろう」
とご神体の霊石をほかへ移し、縄で縛って動かないように何かにつないで家へ帰った。

ところが、大きな蛇が座敷いっぱいにとぐろを巻いていて、おそろしくて家へはいることができなかったそうである。

その時は大山雨降神社の神主にお詫びの祝詞を上げてもらって、ようやく洞窟へ戻って頂いたということだが、ふしぎなことに大蛇はそこの家の人には見えるが、ほかの人には見えなかったというから、一種の幻覚だったのかもしれない。

有鹿神社については、これに似た話が他にもいくつかある。用水の問題は磯部村、新戸村(相模原市)、座間村(座間市)にとっても死活問題であったため、正徳五年(一七一五年)に大きな出入りがあったことが知られており(磯部村内勝坂有鹿神社地出入書)、その時にも蛇体をあらわされたという言い伝えがある。

古い文章にはたびたび出入りという文字が見受けられ、言い伝えなどにもよく出入りという言葉が使われているが、「ごたごた」「もんちゃく」「喧嘩」などという意味で、現代風に「出ること入ること」「超過と不足」などと解釈すると意味が通じなくなる。(小島直司)

『海老名むかしばなし 第三集』
(海老名市秘書広報課)より

追記