天ぐ山

原文:神奈川県大和市


現在二四六号バイパス発掘地高台一帯は古昔は大木うっそうとして昼なお暗く、常に唸声が聞こえていたという。土地の人は大変こわくて、いつとはなしにあの山には天狗がいるというようになった。昔この辺りは両替山という小字であった。

むかし、むかし。田ノ吉という名の男がいました。この田ノ吉は、旅役者でした。ある時国のおかあさんが病気だという便りが届きました。お母さん思いの田ノ吉は急いで、国へ帰ることになったそうです。田ノ吉はおかあさんの事を考えながら旅をいそぎました。さて、この村の宿場までやってまいりましたが、もう日は西にかたむいて夜のけはいです。田ノ吉は茶店で、ひと休みすることになりました。『これから、山を越えなさるんか、それはやめなされ、夜はいかん』茶店のばあさんがとめるので、田ノ吉は尋ねました。『何で夜はいかんのじゃ』『こんな大きな天ぐじゃ。そいつが出て来て、人間をさらうのじゃ』
だから夜になると、だれも山を通らないのじゃ、というのです。

けれども田ノ吉は、『ふん、とめてくれるな。おれは先をいそぐんでな』とかっこよく、歩きだしてはみたものの、それは淋しい山道でした。月は暗いし、木の上の方では不気味な、うなり声が聞こえてくるし、あやしい風は吹くし、からだがふるえて、生きているここちがしませんでした。

そこで田ノ吉は、心の中で天狗なんかこわくない、こわくないと、思いながら歩いていきました。でもやっぱりからだのふるえはとまりません。

しばらく行くと田ノ吉の目の前に、ポット、あやしい光があらわれました。『ひえー、た、た、たすけて』びっくりして逃げようとすると、ドスンと、何かにぶつかりました。田ノ吉がおそるおそる見上げると、そこに大男が立っていました。『お前何者じゃ』『た、た、たぬき』と、とっさに田ノ吉は答えてしまいました。『はあ、たぬきか、よくばけたものだ』と、大男はいいました。

この大男は田ノ吉を見て、たぬきが化けたものと思い込んでしまったようです。『これたぬき』、と大男がいいました。『こんどは女にばけて見んか。わしゃ、しばらく人間の女、見とらんでな、女に化けてみせろや』『へーお、女にーで、でも、とても、そんな』田ノ吉はこまってしまいました。けれども大男は、ゆるしてくれません。『こりゃ、早くせんかい』『は、はいです』。その時田ノ吉は、いいことを考えつきました。『ようござんす。じゃ、ちょっと待っててください。でも、じろじろ見られちゃ、はずかしいや、ねえ、だんな、ばける間向こうをむいててくれませんか』大男は、あんがい、すなおに、後を向いてくれました。そこで田ノ吉はせなかの荷物をおろすと、芝居の衣装を取り出して、大急ぎで、可愛い女にばけました。『はい、おまちどうさま。おほほほほほー』女にばけた田ノ吉は、色っぽく笑うと、大男は、すっかりてれてしまいました。『うへへ、わしゃはずかしい』『あーんた、いい男ねえ』『えへへ』『うふん、きらいなの、いじわる』さすが、田ノ吉は旅役者でした。さて田ノ吉のばけ方にすっかり感心した大男は、いいました。『実はな、わしもばけとるんじゃよ』
『へっ。これたぬき。わしの正体を、見せてやろうかい』『ま、まさか、あの』そうです。この大男は、狐が化けていたのでした。『わっはっは、どうじゃ、たぬき』それを見ると、田ノ吉は、『ひえー』とさけんで、気絶してしまいました。それから長い間気が付きませんでした。大男は水桶を持って来ると、田ノ吉の頭に水をかけました。この大男は、姿ににあわず、なかなか親切でした。『ひゃー狐』やっと田ノ吉は気が付きましたが、腰が抜けて動けません。『はははー心配するな。人間なら一喰いじゃが、わしはたぬきは喰わん』『そ、そう、たぬき、わしは、たぬき』田ノ吉は、ふるえながらキセルを取り出して、口にくわえました。

と、どうでしょう。『ぎゃっ、止めてくれ』大男は、とび上がったではありませんか。『ど、どうしたんです。これはたばこですよ』『やめてくれ、わしは、たぼこはにが手だ。その煙をかぐと、ふらふらになって、死にそうじゃ。止めて、助けてー』と言いながら狐はどこへともなく行ってしまいました。

田ノ吉は、しめしめと思いながら、たばこを吸いながらこの山を抜けることが出来ました。もう東の方は、白々として朝になっておりました。やっとのことで、隣村に着いた田ノ吉は、ことの次第を村の人に話したそうです。村の人たちはあの山には天狗がいて、きつねを使い、色々に化けて、人間をさらって行く、と話してくれたそうです。それからはこの道は夜になると、だれ一人通らなくなったということでした。

古老の話では一之関城山の西方から山王原一帯は大森林であったとのこと。事実はともあれ今の世まで消え去らずに語り伝えられている伝説は捨てがたい。

『大和地名考』富沢美晴
(神奈川新聞社出版局)より

追記