くもがふけ

原文:神奈川県秦野市


「ふけ」と言うことばを知っていますか。「ふけ」とは深とも書くようです。水のたまった池・沼や深田のことを言うのだそうです。

その「ふけ」が丹沢の山の奥にあったんですと。

その昔、曾屋村に一人の鉄砲ぶち(りょうし)が住んでいました。その鉄砲ぶちは、丹沢の山の中に入ってはキジやウサギをとってはくらしをたてていましたと。

ある日のことです。鉄砲ぶちは一ぷくしようとして「ふけ」のふちに腰をおろして、休みました。相当に疲れていたのでしょうか。いつの間にか「うつら、うつら」といねむりをはじめてしまいました。

どれほどたったのかな。鉄砲ぶちはゾクゾクゾクッと寒気におそわれ、眼をさましました。「おや、何だべぇ、何かに引かれて行く感じがすんぞ」と、思いながらも、どうしても眠気には勝てず、また「うつら、うつら」夢の中に引き込まれてしまったんだと。

それからまた何分かたちました。

足の先がむずむずするのです。眠い目をこすりながらよく見ると「これはおどれえた」真白な太い糸が親指にぎりぎりまきつけられているのですと。なおも糸先を追ってよく見ると「ふけ」の底には大きな「クモ」が一ぴき巣をはっているのではありませんか。

「こりゃあ、いけねぇ」「なんとかしなくちゃあ命はねえぞ。」

そうつぶやいた鉄砲ぶちは、寝たふりをしながら、こそこそ指の糸をはずしました。そしてすぐそばの大木の根にゆわきつけたのですと。

そんなこととはつゆ知らず、クモはだんだんと糸に力を入れ、引き始めました。糸がピンと張ると、その瞬間「ミリ、ミリ、ミシッ」と、大きな音がして大木はふけの中に引きずり込まれたのですと。そして大きな枝はクモの上におおいかぶさってしまいました。

クモはびっくり、枝と枝の間から長い足を出してもがきましたと。

それまでじっとがまんしていた鉄砲ぶちは、この時とばかり、
「逃げろ、逃げろ、それ逃げろ。」
と、大声をはりあげ一目散にふちからかけ上がり、命からがら逃げだせたんだそうだ。

それからは、だれ言うとなく、そのふけを「くもがふけ」「くもがふけ」と、呼ぶようになり、だれもおそれて近づく者がなかったんですとよ。

でも、その「くもがふけ」が丹沢のどのあたりにあったものやら、だれひとり知る人がなかったことですと。

本町 上田モトさんより伺いました。

『丹沢山麓 秦野の民話 下巻』岩田達治
(秦野市教育委員会)より

追記