おじき

原文:神奈川県秦野市


青々と沼はすみ、木影の緑をきれいに映していました。ところでこの沼の近くに一けん農家がありましたと。家にはとても気のやさしい美しいひとりの娘さんがいましたそうな。

実はその娘さんはとてもかわいそうだったのです。それはおとうさんとおかあさんに早く死に別れ幼い時からおじさんの家で養なわれていたのです。

ある日のことだそうです。日が暮れて娘さんはひとり水くみに岸辺に行きましたそうな。沼はさざ波一つなく油をひいたようにしっとりとしていましたと。

そんな水の面が突然ささっさと動き出し水の輪が広がりました。水の輪が広がるとその中から大きな龍が顔を出し、娘さんの顔を見るなりやさしいまなざしで岸辺の娘さんに近づいて来ましたそうな。

そして、おどろいた娘さんをいたわるようなやさしい素振りで、
「なあ娘さん、あんたは大へん美しい人です。」「どうかわたしのお嫁さんになってください。」
と熱心にたのみました。

気のやさしい娘さんは、むべにことわることもできず、そっと龍の目を見て考えてしまいました。……ふと、我にかえり、
「はい、はい、今……」
と、返事をかえして、
「実はわたくしは、おじさんの家で育てられているのです。わたしの一存でお返事することはできません。」
「お返事はあと三日お待ちになってください。おじさんと相談しますから。」
と、龍に返事をする約束をしてしまいましたと。

約束をした龍は嬉しそうな顔をして静々と沼の中に消え入りましたそうな。

家に帰った娘さんは沼での出来事を一部始終おじさんに話しました。

この話を聞いたおじさんはおどろき、見る見る中に顔色を変え、
「ととと、とんでもねぇ。」
「だれが龍なんかにかわいい娘をやんもんか。」
と、有無をも言わせずことわるように言いました。

娘さんはそうなるものとは思っていたものの、いざそのことばを聞きますと複雑な気持ちのとりこになってしまったのです。おじさんのことばは……でもあたりまえのことです。龍のお嫁さんになるのですもの。

そう思った娘さんはおじさんの言うことに大きくかぶりをしました。

いよいよ返事をしなければならない約束の日がやってきました。

娘さんは沼の岸辺に立って龍の来るのを待っていました。龍も指折り数えて待っていたのでしょう。やがて水の輪が広がり、その中から龍が顔を出しました。龍は静かなことばで、
「おじきは何と言われましたか。」
と、聞きました。

娘さんは沈んだ顔で下を向いたまま答えることができません。

静かな時間がどんどん過ぎ去りました。

そんな様子を見てとった龍は「夢破れたり」と、思ったのでしょうか、もう一度念を押すように、
「おじきが?。」
と、言うが早いか、娘さんに近づくとさっと身を寄せ背に乗せてしまいました。

おどろいた娘さんは、龍の背から逃げようともがきましたがどうしても逃れることはできません。

龍は娘さんを乗せたまま、沼の面をすべるように泳ぎ出し、自分のすみかの沼を捨てて、室川に下りました。

ますますおどろいた娘さんは手を大きく振り、かみを乱して、大声をはり上げ、
「おじき、」「おじき」「おじき」「おじき」……。
と、何度も何度も声のあるかぎりおじさんを呼び続けましたと。

しかし、その声はおじさんの耳には届かなかったのでしょう?

龍は娘さんを乗せたまま、海の方に下っていってしまったそうです。

この「おじき、おじき」と、呼んだ声がある村人の耳に残され、その「おじき、おじき」が「尾尻、尾尻」と聞こえたのだそうですと。その辺が今の尾尻部落(尾尻村)だそうです。

みなさんも大きな声で「おじき、おじき」と、呼んでみては下さいませんか。きっと尾尻尾尻と聞こえると思いますよ。

この話は上巻「(十九話)龍と娘」でお知らせしました太岳院前の同じ沼にあったお話です。

「おれが聞いていた話はこういうもんだが」と言って今泉 綾部朋治さんがオジキの話をして下さったのです。

『丹沢山麓 秦野の民話 下巻』岩田達治
(秦野市教育委員会)より

追記