神様はみんなの神様

原文:神奈川県秦野市


大竹村と尾尻村がまだ分村しない一つの村のころのお話だそうです。

この村には八幡様がまつられ氏神として尊ばれ、氏子達によって栄えて来たんだと。

ところがどうしたわけか村が二つに分かれることになったのだそうです。そうなると、
「おれ達の村、大竹村の氏神様じゃ。」
「いや、八幡様こそ吾が尾尻村の神様でな。」
と、どちらになるのかなかなかゆずり合いがつきません。

村の代表の人達も全く困り果ててしまいました。
「そうだ。いっそのこと神様にどちらの氏神様なのか聞いてみたらどうだべえか?。」
「よし、それがいい。」
と、ばかり、代表者達は神様にお伺いをたてることになりましたと。

いよいよ、お伺いをたてる日がやってきました。

村の代表者達は身を清め、神様の前にぬかづき、
「神様、神様、神様は一体どっちの村の神様でございましょうか。はっきりおっしゃって下せえ。」
「おれ達ちゃ今、本当に困っているんだぁ。」

切実な願いはお宮の中にひびき渡っていきました。……しばらくは、しんと静まりかえり、針を落してもわかるほどの静けさが続きました。

すると、奥の方から「コトコト」「コトコト」と音がして来ます。
「そら、今、神様がどっちの村かお告げになるぞ。」
と、かたずをのんで待っていました。ところが、いつまでたっても一言のお告げもありません。不思議に思ってそっとあたりを見回すと、「不思議、不思議」「なお不思議」一ぴきのへび? いや、二ひきのへび?。それもそのはずです。鎌首をもち上げた首が二つ。しかし胴から下は一つのへびがいるのです。そして一つの鎌首はじっと大竹村を見つめ、他の一つは尾尻村を指したんだとな。

その時です。誰の声ともなく、
「どっちに分かれても身は一つ。」
と、言う声がおこりました。
「はい、はい、わかりました。」「どちらに分かれても身は一つ。」
と一段と高まった声がオームがえしにかえってきました。

それからは、八幡神社は尾尻村の丘の上に建てかえられましたが、神社の正面は大竹村の方を向き、お祭りの時にはそのようすを尾尻村から大竹村に報告することになりました。それからは、大竹村も尾尻村もいつまでも神様を大切にしたと伝えられています。

南地区大竹 古宮喜十郎さんより伺ったものです。

新編相模風土記稿によれば、

○尾尻村 江戸より十九里半、民戸四十三、隣村大竹はもと当村より分れたる村なり、正保国図には大竹村を載せず、元禄図に至て始めて両村を載たれば正保後分村せしなり、されど元文の頃土人は猶一村とし村高も分たず、都て当村の名主の指揮たりしが四年小田原助郷の事に依て既に分村せしことを知り、官に訴え村高を分ちて全く二村とす、されば境界錯雑として各村に辨じ難し依て二村を爰に合載する。

○八幡宮 社地は小丘にて鶴疇山と称す、尾尻大竹両村の鎮守なり、祭神応神天皇、神体馬乗の像なり、例祭は八月十五日、本地三尊弥陀、銕鏡に鋳出し倿に建保三年九月十六日の数字見ゆ社領三石五斗の御朱印は天正十九年一月賜われり……

『丹沢山麓 秦野の民話 上巻』岩田達治
(秦野市教育委員会)より

追記