メカリ明神

神奈川県三浦市


昔ウツロ舟にて流寄る神有、村里ノモノ 海藻刈ニ出テ是ヲ取上奉テ海難(メカリ)明神ト崇ム 此ノ社ハ海ノ南ヘ向フ故ニ其后ニ海南明神ト改ムト云

『三崎郷土史考』内海延吉
(三崎郷土史考刊行後援会)より

追記

これは内海が明治四十二年にメモしたものだという。そのもとは嘉永元年の地誌の写しからだそうだが、それ以上の詳細は不明とある。

「海南神社」の藤原資盈一行が流れ着いた際も、原地区の人々が海藻刈りに出ていて迎えたといい、原の人は近年まで神事において特別な役割を果たしていたのだが、そこは上の話も踏襲している。

しかし、全体の調子としては「藤原資盈一行」という話とは違うものだといえるだろう。内海もその伝ができる前の古い信仰の残滓ではないかと述べている。

海難をメカリといっているあたり、伊豆諸島の海難法師の伝承や、横浜川崎のめかり婆さんの伝承との関連を想定しておいてもよいだろう。すなわち、年頭の忌籠りの風習が三崎に色濃くあったかどうか、というところを気にしたい。