十一面観音菩薩をめぐる伝説

原文:神奈川県逗子市


行基菩薩が刻んだという十一面観音は、山上にお堂を建てて祀られた。長尾山善応寺と呼んだ。久しい年月がたつうち善応寺は堂も荒れはて、観音像も苔の下に埋もれてしまった。後一条天皇の御代、藤原道長がでて藤原氏全盛のころの話である。土地の里正葉山なにがしの娘に絶世の美女がいた。年ごろになった時、顔に腫れ物ができて、名医と言われる良い医者にもみせたが、一向によくならない。安倍の保仲という陰陽師にうらなってもらうと、娘の余命は年内を出ないであろうというお告げである。両親の驚きは限りなく、何とか命を助けようと大蛇を祀った諏訪明神に願をかけたところ、満願の日に夢の神託があった。池のほとりに十一面観音の尊像が苔に埋もれているから、掘り出して祀れば娘の病はなおるだろうということだった。両親は手分けして尊像をさがし、池のほとりで見つけることができた。観音菩薩の捧持する宝瓶に池の水を汲み、七日の間、観世音菩薩の名号を念じ続け、その後宝瓶の水で瘡を洗えば、たちどころに腫れ物はきれいになおった。

里正夫婦は大変に喜び、新しいお堂を建立して十一面観音の像を祀った。寺の名は「子生(こいき)山感応寺」とつけられた。

沼間の上、愛観(あいみ)橋の奥に小さな池があって、そのあたりを「小池が入り」といった。近くは感応寺平と呼ぶ土地もあって、そこがこの寺のあった所であろうといわれている。そこは感応寺屋敷とも呼ばれて、今でも沼間山法勝寺の持ち地所であるという。

後年工事のため、このあたりを掘ったところ、地下深くに朽ちた大木がいっぱい埋まっていたという。

感応寺へいつか天台宗の高僧が訪れ修行をしていた時、不思議な童子があらわれ、閼伽水と蓮の花を観音像に捧げた。この童子こそ諏訪明神の化身であった。蓮の花をとった所を「はすぬま」といった。桜山の上に今もこの小字名が残っている。閼伽水を汲んだという沼は今「あまぬま」といっていると伝えている。

『逗子市史 別編1 民俗編』(逗子市)より

追記