天桂山 玉宝寺

原文:神奈川県小田原市


後北条氏の家臣垪和(はが)伊予守(天桂山殿活翁宗漢居士)が、母玉宝貞金大姉の追福の為、天文3年(1534)に開いた寺であると伝え伊予守と母との法名をとって山寺号としたのである。なお、この裏山の尾根筋は中世構築の多古城の跡があって、寺と城には、浅からぬ関係あると考えられる。

また、当寺は、五百羅漢を安置する寺として知らて多くの人々は寺名を呼ばないで、多古の五百羅漢という。像は木彫で立像のものは像長36~60センチ、座像のものは20センチ余である。造立の始まりは亨保15年(1730)で、檀家添田氏の夢枕に隣村塚原の地蔵尊が立って造立を勧めたとも、また添田氏がある時秋の洪水で大きな流木を拾おうとすると大蛇であったので殺した処、夜間に無数の小蛇に襲われた夢を見て、一念発起したともいわれる。添田兄弟のうち兄は、僧籍に入り智鉄沙弥となり七年勧進し170体を造ったが、中途で病没したので弟の真澄が後をつぎ宝暦7年(1757)に完成し、寺に安置したという。

この羅漢をたたえた御詠歌に
 わがおやに
  にたる仏もあるらかん
   まわりておがまん
    たこの寺かな

玉宝寺門前掲示より

追記