五百羅漢の由来

神奈川県小田原市


天桂山玉宝寺は、天文三年後北条家臣の垪和氏が母追福のために開いた寺だが、五百羅漢を安置する寺として知られ、多くの人は寺名ではなく多古(地名)の五百羅漢と呼ぶ。

五百羅漢の造立は享保十五年に始まるが、檀家の添田氏の夢枕に隣村塚原の地蔵尊が立って勧めたためという。または、添田氏がある秋の洪水で流れ着いた流木を拾おうとしたところ、それが大蛇であったので殺した。すると夢に無数の小蛇が襲ってくるのを見たので一念発起した、ともいわれる。

添田兄弟の兄は僧籍に入り、七年勧進し一七〇体を造ったが病没した。弟が後をついで、宝暦七年に完成、寺に安置したという。
 わがおやに
  にたる仏もあるらかん
   まわりておがまん
    たこの寺かな

玉宝寺門前掲示より要約

追記

最寄り駅も五百羅漢駅といって、周辺の人も「五百羅漢さん」と認識していて寺名は知らないだろう。その寺にこの様な伝がある。地域誌などには見ず、この門前の掲示のみに蛇の話があるのだ。他に蛇の伝説などがある寺、地域というわけでもない。

そのようなことで、話以上のことはわからないのだが、土地として、狩川と酒匂川の合流するすぐ西側である、というところは重要だろう。寺は微高地にあるが、おそらくそこから川までは氾濫のたびに水没した地域と思われる。

この話は、洪水による水死者の慰霊というものではなかろうか。蛇を水死者の魂のことと捉えると、話が通じるように思う。御詠歌に暗示されているが、故人が蛇となってあらわれる、などといった日金山や駿東地域からも遠くない。また、故人に会える、という信仰が同小田原の板橋や、大山の茶湯寺にある土地柄でもある。