主家を守る蛇形ノ井戸

原文:神奈川県鎌倉市


鎌倉に幕府がおかれたころの大町はにぎやかな町だった。将軍頼家の愛人だった若狭ノ局は一幡(いちまん、公郷)を産んだ。一幡の傅の比企能員一族の屋敷は比企ガ谷(ひきがやつ)にあった。頼家が伊豆の修善寺で暗殺された後、後の将軍えらびで頼家の弟の千幡(せんまん、実朝)派と、比企能員派の対立となった。将軍の血すじを保とうとする北条時政は、その子供の義時、畠山重忠、和田義盛らをつかわして比企一族をほろぼした。このとき若狭ノ局は家宝をだいて比企ガ谷の井戸に身を投げて死んだ。この若狭ノ局が入水した井戸は「蛇形(じゃぎょう)ノ井戸」といわれる。入水した局は蛇に化身して家宝を守り続けた。

そののち、執権であった北条政村の姫君がもだえ苦しむ重い病になったのも若狭ノ局の怨霊のたたりであった。それを知った政村は比企ガ谷に祠を建てて局の霊をまつった。これが妙本寺境内の「蛇苦止明神」のおこりだといわれる。

なお、若狭ノ局が入水した蛇形ノ井戸と松葉ガ谷にある「六方ノ井戸」とは水脈が通じていて、家宝を守った蛇はその両方の井戸を往復していた。蛇形ノ井戸に蛇がいるときには井戸にさざ波が立ち、六方ノ井戸に行っているときには波は止んだといわれている。

時代は下って、応永二十九年(一四二二)に佐竹氏と上杉氏が争って、負けた佐竹上総介入道常元は妙本寺のお堂で自刃して死んだ。そのとき佐竹氏を追いこんだ上杉氏は、お堂に火をつけた。時の日行上人は、急いで日蓮の書いたというマンダラをとり出して蛇形ノ井戸にそれを隠した。するとたちまち井戸から黒い雲が立ちのぼって、蛇の姿が現れたかと思うとはげしい雨になり、上杉氏がつけた火は消し止められた。それは若狭ノ局の化身である蛇のなすわざであったという。

『三浦半島の民話と伝説』菊池幸彦
(神奈川新聞社)より

追記