人丸塚

原文:神奈川県鎌倉市


扇ヶ谷の巽荒神の裏手、鉄道線路を越した向側の北に寄ったところにあった人丸塚は、景清の娘、人丸姫を葬った塚と伝えられています。

この伝説は二つありますが、その一つは景清が捕えられて鎌倉へ送られると、人丸姫はその後を追って自分も鎌倉へ来ましたが、もちろん父に会うことは許されず、身柄は扇ヶ谷の長者の家へ預けられることになりました。その後、景清は飲食を絶って死にました。人丸姫はそのことを聞くと、緑の黒髪をきって尼となり、父が幽閉されていた土牢の上に小さい庵を結び、景清が肌身につけていた守本尊の観音像を安置して、父の菩提をとむらい、念仏三昧の生涯を送って亡くなりました。里の人々はその孝心と哀れな生涯に感じ、塚を築いて葬り、人丸塚と呼んでいたという話です。

もう一つの話は、景清の死後、人丸姫は八幡宮の巫女になりました。その頃幕府の右筆になっていた京都の公卿がいました。右筆の公卿は八幡宮の祭礼の時、神楽を舞った人丸姫のあでやかな姿に一目惚れして、どうしても自分の妻になってくれと、かき口説きました。初めのうちはかたく断りつづけていた人丸姫も、やがてはあまりに熱心な男の言葉や振舞にほだされて、いつとはなしに契りを結ぶようになりました。ところが、それから間もなく公卿は京都に呼び戻されることになり、必ず迎えの者をよこすからと約束して、別れを惜しみながら帰って行きました。人丸姫は男の言葉を信じて、京都へ行ける日を待ちわびていましたが、男は帰ったきり、まったく梨のつぶてで何の音沙汰もありません。それでも人丸姫はなお男を信じ、迎えの来る日を待ちつづけました。そして何年か経って、やはり男に欺かれていたとさとった時、姫はつれない男を怨み、世をはなかなんで近くの池に身を投げて死にました。その怨念は大蛇になってさまざまの祟りをしました。里人たちは姫の薄倖をあわれみ、また怨霊をなだめるため、池のほとりに塚を築き人丸塚といって敬いまつりました。

さて、人丸姫をだました公卿は、京都へ帰ってから思いがけない出世をして高い官位につきましたが、姫が入水してから間もなく、何か大きな過ちをおかし咎を受け、低い身分に落されました。そのため男は気が変になり、人丸姫の名を口走りながら狂い死をしました。

そのためこの公卿の家では、何十年目かに一度かならず当主が鎌倉の人丸塚へ供養に来ることになっていたそうです。

なお、この塚の辺は耕したり、家を建てたりすると祟りがあると言い伝えられ、永い間草ぼうぼうの空地になっていたと言います。

土地のお年よりの話では、大正の末ごろまでは人丸塚のわきには伝説の池が小さくはなったもののちゃんと残っていたそうです。またそのあたりに建ちぐされになった家があり、そこに長さが四メートルぐらいもある大きな青大将が二匹棲みついていたとのことです。

『かまくらむかしばなし』沢寿郎
(かまくら春秋社)より

追記