光明寺の善導像と江ノ島弁天

原文:神奈川県鎌倉市


光明大師善導和尚は唐僧で浄土宗の開祖法然上人の私淑した傑僧である。

本尊の阿弥陀如来を中央に、左に法然、右に善導を祀るのが浄土宗のまつり方である。

鎌倉材木座の光明寺は浄土宗六大本山の一つで、もと関東総本山といった寺である。

浄土宗のお十夜法要は全国各地に広まっているが、これは光明寺第九代祐崇上人が後土御門天皇の勅命で、宮中清涼院で引声阿弥陀経の法要を勤めた折、十夜法要を毎年行なえとの勅命を拝したのにはじまったものである。さて、光明寺の総門をくぐって右側に善導塚という石碑があり、本堂には、善導の木造立像が安置されている。この善導像は光明寺開山の良忠上人が、鎮西上人から贈られた丈六仏だが、あまりに重いので運ぶに運べず、やむなく、筑後の千歳川に流した。それから十数年後、材木座の漁師が拾い上げて、良忠に見せたところ、むかし、川へ流した善導大師像だったので、大いによろこび、大いによろこび、鎌倉こそ関東布教の根拠地であると信じ、光明寺を創建したと伝えている。この像は永い間海中にあったためか、脚部が朽ちている。

この善導大師は弁財天像と一緒に、二尊堂に安置してあったものだが、大正十二年の関東大震災の折、この堂が倒壊したので、本堂に安置するようになった。

この二尊堂について面白い伝説がある。善導像が毎夜本堂をぬけ出て、山門と総門の間で、善男善女を集めて説教をしていた。それを聞いた江ノ島弁才天は、或る夜、人知れず島をぬけ出て、善導の説教を聞きに来たところ、大いに感銘したので、それからというもの、毎夜の如く島をぬけ出て、光明寺までかよって来たが、そのうち江ノ島に帰らなくなってしまった。

江ノ島では、本尊が見当らないので、八方手をつくして捜し、やっと光明寺にあることがわかったので、本尊を返して欲しいと申し入れた。光明寺ではすぐ弁才天像を送り返したが、翌夜もまた光明寺に現われた。その後、何回となく島へ送り届けたがやはり戻ってくるので、ついに堂宇を建立して善導弁財天の二尊を安置したという。

江ノ島ではついにあきらめて、新たに本尊の弁才天像を祀った。だから江ノ島も光明寺も八臂弁財天だとか。また善導像が毎夜説教をしたといわれている所に、善導塚の碑を建てたのだそうである。

『書かれない郷土史』川口謙二
(錦正社)より

追記