八幡神社の池

原文:神奈川県平塚市


平塚新宿の八幡神社の池は、東西に横たわる瓢の形をしているが、寛永十四年(一六三七)の鶴峰山八幡宮之記によると「もとは種子をあらわしていたが塵に埋もれて字形を失ったため近頃八字となした」とある。種子は五智如来を意味した梵字である。八字は社号の頭字をとったものだろう。大正のはじめ頃まではやや八字の形を残していたがその中期、神域の大改修を行ったとき、池辺に玉石を積み樹木を植え大石を配していまのような池としたのである。

東の池には弁財天がまつってあった。石の叢祠があった。大きな藤の蔓が松にからんで大蛇のようだった。西の島には愛染明王がまつってあって、形のよい高さ八〇センチほどの宝篋印塔が石の宮の傍に建っていた。

双方の池面には白い蓮と赤い蓮とが咲いた。源平の池と呼んだ。

西の池に、深い井戸があると古来伝え、そのなかに釣鐘が沈んでいると伝説された。永禄十二年(一五六九)秋、武田信玄が小田原攻撃のおり投げこませたといわれた。明治四十四年夏、大旱でこの池の水が枯れたことがある。雨乞いには、池を浚って沈んでいる竜を掘り出すと霊験があるとの土地の伝承にもとづいて、各戸から一人づつバケツ携帯でひとが出た。ここが井戸にちがいないと竿をたてたのは島の北東にあたる一点、なるほどそこだけは凹んでいて水が枯れていなかった。

そのとき西の池から牡が、東からは牝が発見された。竜と言っても木彫で首だけだった。胴は折れたものらしく痕がみうけられた。角は朽ちてあとに穴があいていた。どちらも高さ十五センチ長さ二十センチほどのもの、材は桜のようだった。これを浄財箱にいれてまつり、上から賽銭を投げこむと雨が降ること請け合いとされた。幾日か過ぎて竜は再び池に戻された。その後もいちどこれが掘り出されたと聞いた。

この池には鯉も亀も多かったが、むかしは蛇が多かった。白蛇がいるという説などもあった。

正面の橋は古風な石橋で、太鼓橋もあったが、今はキレイな反橋がかけられている。

『新平塚風土記稿』高瀬慎吾
(平塚市教育委員会)より

追記