後家が崎

原文:神奈川県横須賀市


観音寺っていうのは、おもしろい話があんだよね。神亀五年、七二八年ごろだよ。行基菩薩が菅笠をかぶってさ、黒の坊さんの着物着て来たんだね。鎌倉から腰越(鎌倉市)を通って、葉山から逗子へ抜けて阿部倉まで来て、山裾を通って大津の信楽寺のほうから小原へ来たわけだ。

そいでこの小原台へ来たところが、もう日も暮れかかってね、おばあさんと娘らしい女の人が、ふたりで畑の草を取ってたんだって。ときはちょうど二月ごろだな。行基菩薩が、
「この村の人間はどれだけ学があるか調べてやろう」と思ってね、
「いま、あんたが育ててる草は、なんていう草だ」
そしたらそのおばあさんが言うには、
「冬なま草の夏枯れ草」って言ったそうだよ。

麦は夏は枯れるわけだよ、黄色くなって。十二月に種蒔いてね、一月ごろはちょうど芽がでるわけだよね。そのおばあさんが言うには「冬なま草の夏枯れ草」だと。

そうしたら行基お坊さんは、
「これは一発やられたな。これはうっかりしたことは言えないな」って思ってね、「なかなか賢い村人だ」と。

何か気がかりとか困ることとか、そういうことがあれば聞いてやろうと思って、
「心配事か何かないか」と言ったら、おばあさんが言うには、「この岬のでっぱりの下に穴があって、そこにナガモノ(大蛇)が棲んでる」って。おばあさんが言うには、
「わたしの亭主も夏の夜にメバル釣りに行った」と。そうしたら、大蛇が夏で暑くて首を出してムコウジ(千葉県側)へ渡ったと。それをたまたま見ちゃった。そうしたら夜光虫が青白く光って、波を切って泳いでいくのがすごいらしい。そういうすごいやつを見ちゃって、帰って来て熱を出して亡くなっちゃった。それが一軒や二軒のことじゃなくて多々あったわけだ。

だからその当時の観音崎っていうのは、後家が増えてしまうから「ゴケガサキ」って言ったの。そいで(それで)ひとつにはホトケザキ(仏崎)。ふたつ言ってるわけ。見るたびに一人減り二人減りしていくので、村人が脅えてると。後家さんが増えて気の毒だと。

「それじゃあ私が封じてやろう」ってわけでもって、行基菩薩がひとつの顔の上に十一面の観音様がある像を彫ってお祀りして念をかけたわけだ。

そしたら以後、その大蛇はでなくなったって。(加藤栄さん談)

『新横須賀市史 別編 民俗』
(横須賀市)より

追記