市兵衛同心の話

原文:神奈川県相模原市緑区


いつのころか(といっても大体幕末に近い天保ごろのことらしいが)市兵衛同心と呼ばれる仙人が、相模川の川向うの小倉山から、この大島村まで出て来て、家々をまわり、山で獲った鳥や獣と、米や塩とを物々交換するのであった。もともとこの男は市兵衛同心と呼ばれるように、前身はある奉行所の同心(同心は町奉行所に所属し、与力を補助してもっぱら捜査や逮捕にあたったものである。)であったが、どういうわけか世をはかなんで小倉山の松山平に隠れ住み、仙人のような生活をしていた。今に同心沢とか市兵衛平とかの地名を残している。

さて前述した市兵衛の持って来る鳥や獣のことであるが、これには一応の説明が必要になる。ここに下小倉の名主に忠蔵というものがあったが、この家の土蔵にながく大蛇が住んでいた。蛇は大人の拳ぐらいの太さで、「やまっかがし」であったといわれる。この蛇が蔵の中に貯蔵する穀物を荒らす鼠をよく獲ってくれるので、家人にも調法がられ可愛がられていたが、何しろなかなかの大食いで、一日一升の米を喰べてしまった。そのため財政窮乏になった忠蔵には、飼いきれなくなってしまった。そおでついに扶持を放し、小倉山に捨ててしまったのであった。

永年人間に飼われて野性を失っていた蛇は、自分から餌を探すこともできず、餓死寸前の状態に陥った。それを見た市兵衛は憐れに思い、自分の棲家の洞穴に連れて来た。そして仙人の常食としていたかに・魚類・蛙・蝸牛・百合・山芋などを与えたのであった。栄養がついた蛇は元気になって、再び野生の獰猛さをとりもどし、兎・雉子・山鳥・五位鷺・瓜子(猪の子)などを獲って来て、お礼心に市兵衛に与えるのであった。この獲って来た獲物には、全然疵がついていないので、市兵衛が里に持ち出して、物々交換するのにも大変工合がよいのであった。元来、小倉山には五位鷺が沢山棲んでいるので有名であったが、この蛇のために、ついにいなくなってしまったそうである。しかし蛇は耳が聞こえないものか、市兵衛は常々「忠蔵蛇はどうもつんぼで困るよ」といっていたそうである。

市兵衛はまた獺を使って相模川の鯉・鯰・鰻などを獲った。獺は大きな魚の鰓の中に頭を突っこみ、咬み殺して生血を吸うのである。大魚が咬まれたまま水面をのたうちまわる憐れな有様は、見るに忍びぬものがあったので、のちには藤蔓で編んだ網ですくって獲ることにした。この市兵衛の終るところは誰も見たものはなく、いつの間にか行方知れずになってしまった。

『増補改訂版 相模原民話伝説集』
座間美都治(私家版)より

追記