土橋の茶筅松

原文:神奈川県川崎市宮前区


土橋の字原台二六九番地に茶筅松という大きな黒松があった。この松は大人が三、四人で抱えるぐらいの太さがあり、枝葉が地にたれ下がって格好がよかった。また、多摩川の向こうの瀬田の台からも松が見えたという。昔、源頼朝がこの松の枝に金の茶釜をかけてお茶会を開いたという。また一説には、そのときに松の葉を取って茶筅に使い、その松の葉に根が生えて繁茂したのがこの茶筅松であるとか伝えられている。

「新編武蔵風土記稿」土橋村の条に「茶筅松、村の南字さき沼台にあり、太さ二囲餘、相伝ふ頼朝此松の葉を以て茶筅に用ひ、其用はてゝ後此所へ棄られしが、根生ひて大木となりしといへり、うけがたき説なり」と記してある。

昔から茶筅松には松の主という龍が住んでいて、夜になると影取りの池へ水を呑みに通ったという。そして、その龍が通ったところは豊作物が倒れて跡がついていた。あるとき、一天にわかにかき曇り空が真っ暗になると、この龍は天に昇ってしまった。そして龍がいなくなると、この松は次第に勢いがなくなり、明治初期に枯れてしまったという。明治二十年ごろ、土橋の大久保金左ェ門がこの茶筅松の下に八幡様の祠を祀った。この祠は石造りの高さ六十一センチ、幅二十六センチ、奥行十九センチで、左側面に「大久保金左ェ門」と刻んである。そして、正月にはこの祠に注連縄を張ってお祭をしたという。その後、明治三十五年ごろ、この枯れた茶筅松のヒデに火がついて幾日も燃えたという。また一説には、落雷で焼けたともいわれる。その焼け残った黒こげの胴木は高さ四メートルぐらい、周囲は大人が三人で抱えるぐらいの太さがあったが、戦時中ある人が切ってしまった。(稲田郷土史料集 第三集 四六・一二・一〇)

『川崎の民俗』(角田益信)より

追記